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琴電/潟元駅から屋島へ向かう途中の麓にある屋島小学校。その前を通って南から北へ登る県道がへんろ道。屋島小学校校庭に昔懐かし珍しい二宮尊徳像。 |
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ニューグランデみまつ朝食は昨夜と同じ、一階 海鮮居酒屋.金家で。 |
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国道11号志度街道を進み琴電潟元駅から屋島への遍路道に入る。
屋島への急坂は市民の散歩コースになっていて早朝だが沢山の方々が歩いている。 |
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逸話に残る空海が食べたかった「不喰梨」空海が湧かした「加持水」前を登りきると屋島寺 |
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屋島寺 |
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屋島には高校の修学旅行で来ていた。まさかそれから50数年後に歩いて登ってくるとは。 |
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屋島寺を出て屋島古戦場を望む高台。近くに廃業した旅館「甚五郎」の廃墟が悲しい姿のまま晒されていた。 |
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感動の屋島の絶景!ここが古戦場跡とは思えない平和な光景
源平合戦古戦場の歴史....屋島ナビから |
一般的に「源平合戦」や「源平の戦い」と呼ばれている「治承・寿永の乱」は、平安時代末期、1180年から1185年の6年間に渡って日本各地で繰り広げられた、源氏と平氏による戦いです。この戦いは、古代最後、中世最初の内乱で、後白河法皇の皇子・以仁王(もちひとおう)の挙兵を契機に始まりました。当時、平清盛を中心とする平氏が政権を掌握していましたが、以仁王の呼びかけにより各地の武士が打倒平氏のために挙兵。そして、山口県の壇ノ浦で平氏を滅ぼします。その時に源氏側で指揮を務め、活躍したのが源頼朝や源義経です。源平合戦の大きな舞台の一つである「屋島の戦い」は、戦いの晩年の1185年に起きました。一ノ谷の戦いに敗れた平氏は、讃岐国屋島へ逃げて本拠を構え、海からの攻撃に備えて陣を構えます。一方、源義経が率いる源氏軍は軍船を組み、平氏を追って暴風雨の中を出港。大阪の摂津から徳島の小松島まで、わずか4時間で瀬戸内海を渡ると、そこから陸を伝って屋島へ。そして2月19日の早朝に義経軍は二手に分かれて奇襲を仕掛けます。海上からの攻撃を想定していた平氏軍は、不意を突かれ、屋島と庵治半島の間の檀ノ浦浜付近の海上へ兵を後退させますが、やがて反撃。その際、那須与一
扇の的や義経 弓流しなどのエピソードが生まれました。屋島の戦いは、結局、源氏側の梶原景時の大軍が迫り、平氏軍は、屋島を追われることに。山口県下関市の彦島へ逃げ落ちます。
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平家物語・屋島の戦い/那須与一が扇を射る様子。左が源氏勢、右が平家勢 |
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屋島寺から八栗寺へ |
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急峻なへんろ道は厳しい下り、足を滑らせながらの難路。 |
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いのししが出没するためへんろ道の所々は柵を開け閉めして通る。 |
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屋島寺から下った先に屋島の戦いにまつわる遺跡が多々あり。 |
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源義経の家臣佐藤継信の墓。
義経四天王に数えられ、義経が挙兵した源頼朝の陣に赴く際、奥州・藤原秀衡の命により義経に随行。平家追討軍に加わったのち、屋島の戦いで討ち死に、義経はひどく落胆し丁重に継信をこの地に葬った。 |
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幼帝.安徳天皇を祀る行宮跡。
一ノ谷の戦いで敗れて屋島に逃げ込んだ平家の総大将・平宗盛が建立した、安徳天皇の行宮跡。天皇は、わずか6歳で崩御。その後、ここは、安徳天皇を祀る霊所になる。 |
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八栗寺へケーブルカー乗り場脇の急な登りのへんろ道を行く。 |
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八栗寺へあと一息の裾に、お遍路接待をされている「仁庵」があり、同年配の女主人に声をかけれらる。仁庵をされているSさん。本格的な接待で、ハーブゼリー、麦茶、菓子のおもてなし。
疲れた身体と心に沁みるお接待だった! |
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「仁庵」さんから一登りすると八栗寺の真下、登りきった見晴らし台でお迎え大師像に迎えられる。 |
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八栗寺参拝しているとまたまた和歌山姉妹と合流。この一週間の間に何度会うことか。 |
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最後の志度寺までは7㌔の平坦なへんろ道。さぬき市志度は昔懐かしい家並みが続く。 |
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さぬき市志度は平賀源内の生誕地。 |
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平賀源内 by 百科事典マイペディア |
江戸中期の科学者,戯作(げさく)者,浄瑠璃作者。名は国倫(くにとも),号は鳩渓(きゅうけい),戯号は風来山人(ふうらいさんじん),福内鬼外(ふくうちきがい)など。讃岐(さぬき)高松藩の小吏の家に生まれ,1752年長崎に留学,1756年江戸に出て本草学を学ぶ。物産会を開いて1763年《物類品隲(ひんしつ)》を著し,エレキテル,寒暖計,火浣布(かかんふ)(石綿布)などを製し,鉱山発掘を計画し,油絵の洋風画も描いた。その間致仕浪人し,学問のかたわら談義本や浄瑠璃を執筆。多才にして世にいれられず,晩年生活が荒れ,口論から人を殺傷して獄死した。代表作《風流志道軒伝》《根南志具佐(根無草)》《神霊矢口渡》など。 |
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今日最後の参拝寺志度寺。 |
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志度寺から10分ほどの「たいや旅館」が今日の宿。 |
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「たいや旅館」は朝食だけなので教えてもらった食堂に夕食に出かける。 |
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志度寺近くの「松ヶ崎義経十二本松」は屋島の戦いに敗れた平家の軍勢と追撃して来た義経軍が激闘を繰り広げた闘いは平家滅亡に向けての屋島における最後の合戦となった。こんな場所まで義経などが活躍していたとは知らなかった。 |
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「たいや旅館」裏の海から今日登って下って歩いてきた屋島と八栗山を望む。 |
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たいや旅館は夕食がないので、18時~近くの「かねこ屋食堂」で夕食。 |
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7日目歩行数&距離
35750歩 25.0㌔ |
歩行距離=ゆっくり歩き
身長179㎝x歩幅0.7で計算 |
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長い年月をかけて歩いた四国八十八ヶ所お遍路も、明日はとうとう最後の一日となった。 |
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