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2016年4月8日(5日目) 足摺岬〜39番延光寺〜高知県宿毛 |
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宿毛〜宇和島へ |
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(5日目)4月08日 |
足摺テルメ |
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足摺バスターミナル |
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予讃線/中村駅 |
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39番延光寺 |
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国民宿舎 椰子 |
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4:30起床そしてラジオ体操 6:40分宿の車で岬センターバスターミナルへ。(\12936)7:13のバスで約2時間乗って中村駅に着く。 |
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くろしお鉄道 中村駅から39番延光寺へ向かう。 |
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くろしお鉄道宿毛線/国見駅前の遍路道を進む |
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5時間歩いて14:30 四国八十八ヶ所/39番延光寺参拝。 |
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寺山のいぶきは周囲2.7m樹高10m、幹は南東に傾斜して推定樹齢400年。 |
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四国八十八ヶ所/39番延光寺境内 |
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39番延光寺参拝をすませ今日の宿宿毛国民宿舎椰子に電話して迎えをお願いすると今月からそのサービスは止めたという、しかしHPにはその文言のったままなので、強く申し入れ検討して返事するよう伝え電話を切り待つ。キャンセルするしかないと思っていると間もなく返信があり「すぐに迎えに伺います」と返事。 |
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延光寺山門前でしばらく待ち迎えの車で宿へ。フロントには先ほどの電話の主の女性スタッフで丁重に詫びられたのでこちらこそと言葉を交わし気持ちよくチェックイン。4階の部屋からの眺めは素晴らしい。 |
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国民宿舎椰子は民営の国民宿舎だが、この宿もお遍路にはありがたいお遍路プランで二人で1泊2食付き16600円。 |
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夕食時の窓の外は夕陽がきれいだ。 |
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5日目:歩行数31348歩 22.5km. 1歩=72pで計算 |
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2016年4月9日(6日目) 宿毛〜40番感自在寺〜愛媛県愛南町 |
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宿毛〜40番感自在寺 |
| (6日目) 4月09日 | 国民宿舎椰子 | | 松尾峠 | | 愛媛県へ | | 40番感自在寺 |
| ホテル・サンパール | |
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椰子で7:00朝食、8:00宿の車で宿毛市内56号線で降ろしてもらい、今日の遍路をスタートする。 |
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小一時間歩き松尾峠の入口から頂上を目指す。この峠を越えると高知県から愛媛県に入る。 |
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松尾峠の大師堂跡でも納経 |
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松尾峠を高知から愛媛側に入るととたんに良く整備されていて差を感ずる。 |
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愛南おっとろっしゃ産直市 |
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『伊予路来て 味も値段も おとろしや』 徳光さんのお遍路さん収録中にも登場した道の駅。
徳さん直筆の色紙 |
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6時間歩いて、愛媛最初の札所、40番・観自在寺に到着 |
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観自在寺 社務所のたぬき |
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栄かえるの石像
親子孫と三かえる
お金かえる
福がかえる
病気が引きかえる |
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40番・観自在寺 栄かえるの石像 |
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観自在寺の独鈷二つ。 |
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40番・観自在寺 納経所 |
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40番・観自在寺から約40分愛南町の『ホテル・サンパール』へ。 |
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愛南町 ホテル・サンパール15時到着 チェックイン。 |
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『ホテル・サンパール』は「山出温泉」から引き湯の天然温泉。 |
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今夜はホテルの夕食なしプランなので、近くのスーパーで地のものをいろいろ買って部屋で食べる。 |
6日目:歩行数34515歩
24.8km.
1歩=72pで計算 |
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2016年4月10日(7日目) 宿毛〜柏坂峠越え〜宇和島 |
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宿毛〜宇和島へ |
| (7日目)4月10日 | 愛南町サンポール | | 柏坂峠越え | | 宇和島駅 |
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ホテル・サンパール6:30朝食、7:00同宿していた、3名のグループと1人遍路さんと一緒の時刻に出発する。 |
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宿毛街道56号線を歩く。室手海水浴場 |
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愛南町柏の船着き場を進み柏坂へんろ道に入る。 |
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柏坂へんろ道は地図上の距離は短いが山道の峠越えはなかなかハード。 |
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柏坂へんろ道 柳水大師、清水大師を過ぎていく。 |
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柏坂へんろ道 野口雨情が昭和12年この地に滞在した折の民謡詩が残されている。
『松の並木のあの柏坂 幾度涙で越えたやら』 |
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標高480mつなわ奥展望台に到着休憩。展望台からの景色は素晴らしい。眼下に由良半島が広がり、天気が良ければはるか遠くに九州地方も臨めるそうだ。峠を下りおり津島市街を抜けて町はずれの高田バス停から宇和島バスターミナルまでバスに乗る。すでに30`ほど歩いてきて宇和島まで10`残しバスを使う。 |
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津島町外れバス停から
バスで宇和島へ |
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バスターミナルからアーケード街を通って今日の宿宇和島第一ホテルへ。 |
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宇和島第一ホテルチェックインの後荷物を部屋に置いて宇和島散策に出かける。
知らなかったが宇和島は真珠の一大生産地で偶然入った井上真珠店は当地の老舗だった。 |
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アーケード街から宇和島城へ。 |
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NHK.BSで『独眼竜政宗』再放送を見た時からこの城見学は楽しみにしていた。 |
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NHK.BS『独眼竜政宗』では政宗の側室「猫御前」の嫡男が城主となっている |
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宇和島城天守閣下からは宇和島市内全域が見渡せる。 |
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現在の地に初めて天守が建造されたのは慶長6年(1601)藤堂高虎 築城のときとされている。城の外郭は上から見ると不等辺5角形をしており、随所に築城の名手と言われた高虎ならではの工夫が見受けられる。高虎が今治に転封となってのち、奥州仙台藩主、伊達政宗の長子秀宗が宇和10万石を賜り、元和元年(1615)に入城。2代宗利の時、天守以下城郭の大修理を行い、寛文11年(1671)に完成。その姿を今に残している。
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宇和島城見学して街に出る。「どがいぞう」に入り夕食。 宇和島方言/どがいぞう=どうでしょう |
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7日目:歩行数45061歩 32.4km. 1歩=72pで計算 |
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2016年4月11日 (8日目) 宇和島〜八幡浜 |
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宇和島へ |
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(8日目) 4月11日 |
宇和島第一ホテル |
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41番・龍光寺 |
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42番・仏木寺 |
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43番・明石寺 |
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4月11日 お遍路8日目。宇和島第一ホテル6:00起床、ラジオ体操して 7:00朝食してチェックアウト |
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今日は41番、42番、43番の3ヶ寺を参拝して八幡浜までの一日。 |
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お別れ公衆電話
宇和島駅構内 |
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宇和島駅前を通りその先の踏切を左に渡り遍路道に入り41番龍光寺へ向かう。駅へ向かう通勤通学の人たち多数と行き交う。 |
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宇和島ホテルをでてから約3時間かかって最初の41番龍光寺に到着。
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41番龍光寺、本堂・大師堂では今日も般若心経唱和の後、乳癌の手術をした長女の快復と不妊治療を続けている末っ子の子宝に恵まれますよう祈る。 |
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41番龍光寺へのへんろ道で、外人女性と日本人の一人遍路のお年寄りが並んで歩き、片言英語で説明しながら歩いているのが耳に入る。親切なお年寄である。良心的な行為に感心しながら、声をかけ横を抜けて先に行く。 |
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41番龍光寺 納経帳に御朱印をいただき、お手洗いをお借りしたあと体勢を整え42番仏木寺へ向かう。 |
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41番龍光寺〜42番仏木寺 遍路道チューリップ街道 |
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41番龍光寺から42番仏木寺のへんろ道に咲くチューリップの長〜い花壇。チューリップ街道と言われているらしい。手入れは三間高等学校と成妙小学校の生徒さんたちされている。素晴らしい!
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お昼頃 42番仏木寺に到着。納経して御朱印をいただく。 |
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今日最後の43番明石寺を目指す。 |
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43番明石寺へは歯長峠を越して行く。 |
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歯長峠はへんろ泣かせの難所で、くさり場のある急坂を越えなければならい。 |
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先日の大雨でがけ崩れがあり↑通行止めになっていたのを知らずに抜けてきた。 |
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明石寺へ6.3`まだまだだ! |
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43番 明石寺14:00到着。宇和島のへんろ道で追い越した外人女性とお年寄りの二人連れと境内で再会する。女性はイタリアから来ていてお年寄りの親戚に今夜は泊めてもらうとのこと。 |
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43番明石寺 |
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ここでも、今年乳癌の手術をした長女の快復と不妊治療を続けている末っ子の子宝に恵まれますよう祈る。 |
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明石寺参拝して納経所で予讃線の最寄り駅を尋ねると、卯之町駅までの道順を教えてもらい、山門横から山道を下ると卯之町に入る。ここも風情のある街並み。 |
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楠本イネ |
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楠本イネ**Wikipedia |
1827年(文政10年)、ドイツ人医師であるフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトと、丸山町遊女 瀧(1807-69)の間に生まれる。母の瀧(お滝)は商家の娘であったが、日本人の出入りが極限られていた出島にてシーボルトお抱えの遊女となり、彼との間に私生児としてイネを出産した。父シーボルトは1828年(文政11年)、国禁となる日本地図、鳴滝塾門下生による数多くの日本国に関するオランダ語翻訳資料の国外持ち出しが発覚し、イネが2歳の時に国外追放となった。イネは、シーボルト門下で宇和島の町医者二宮敬作から医学の基礎を学び、石井宗謙から産科を学び、村田蔵六(後の大村益次郎)からはオランダ語を学んだ。1859年(安政6年)からはヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールトから産科・病理学を学び、1862年(文久2年)からはポンペの後任であるアントニウス・ボードウィンに学んだ。1858年(安政5年)の日蘭修好通商条約によって追放処分が取り消され、1859年(安政6年)に再来日した父シーボルトと長崎で再会し、西洋医学(蘭学)を学ぶ。シーボルトは、長崎の鳴滝に住居を構えて昔の門人やイネと交流し、日本研究を続け、1861年(文久元年)には幕府に招かれ外交顧問に就き、江戸でヨーロッパの学問なども講義している。ドイツ人と日本人の間に生まれた女児として、当時では稀な混血であったので差別を受けながらも宇和島藩主・伊達宗城から厚遇された。宗城よりそれまでの「失本イネ」という名の改名を指示され、楠本伊篤(くすもと
いとく)と名を改める。1871年(明治4年)、異母弟にあたるシーボルト兄弟(兄アレクサンダー、弟ハインリヒ)の支援で東京は築地に開業したのち、福澤諭吉の口添えにより宮内省御用掛となり、金100円を下賜され明治天皇の女官葉室光子の出産に立ち会う(葉室光子は死産の後死去)など、その医学技術は高く評価された。異母弟ハインリヒとその妻岩本はなの第一子の助産も彼女が担当した(その子は夭折)。その後、1875年(明治8年)に医術開業試験制度が始まり、女性であったイネには受験資格がなかったためと、晧台寺墓所を守るため、東京の医院を閉鎖し長崎に帰郷する。1884年(明治17年)、医術開業試験の門戸が女性にも開かれるが、既に57歳になっていたため合格の望みは薄いと判断、[要出典]以後は産婆として開業する。62歳の時、娘高子(タダ、後述)一家と同居のために長崎の産院も閉鎖し再上京、医者を完全に廃業した。以後は弟ハインリヒの世話となり余生を送った。1903年(明治36年)、鰻と西瓜の食べ合わせによる食中毒(医学的根拠はない)のため、東京の麻布で死去した。享年77。墓所は長崎市晧台寺にある。
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シーボルトの娘イネさんが住んでいた二宮敬作宅。高野長英の隠れ家は二宮宅の裏の離れ。 |
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卯之町駅は懐かしい風景の駅舎。電車の時間まで待合室でしばらく休んで待つ。 |
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卯之町駅16:03分の電車は一両編成の電車で、のどかな田園の中を走り八幡浜駅に16:26着。 |
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予讃線終点の八幡浜駅から宿のスーパーホテルまで八幡浜港方向に向かって行く。 |
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八幡浜駅からアーケード街を抜けて15分くらいでホテルに着く。チェックイン。 |
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2泊で朝食付きツインルームが13820円!なんという安さ。おまけに天然温泉付き。荷物をかたずけすぐお風呂へ。20時までは男性専用でそれ以後は女性専用になる男女入れ替え制。 |
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Mが部屋で待つ間にお風呂に入り着替えて、夕食に町に出る。かねて調べておいた食堂『ロンドン』へ |
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八幡浜名物 ちゃんぽんの老舗ロンドン、ちゃんぽんとカツカレーどちらも大盛りで注文。二人で交互に分けて食べる。ちゃんぽんは昔 長崎で食べた(長崎ちゃんぽん⇒)と比べると素朴なものだった。 |
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ホテルに帰り、20:00〜Mはホテル一階の女性タイムの温泉浴場へ。
今日でお遍路も終了して、明日は大州〜内子の街歩き、そしてあさって4月13日から九州・大分で2泊して3度目のお遍路旅が終わる。 |
8日目:歩行数44523
32.0km.
1歩=72pで計算 |
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