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悪人と行き連れなんも弥谷寺 ただかりそめも良き友ぞよき
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第七十一番・弥谷寺 |
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71番・弥谷寺
71番・弥谷寺 参道の俳句茶屋にリュックを預けてお参りする
大師堂長い石段を上がる
本堂はさらにその上
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参拝日 |
2018年3月29日(平成30年) |
参拝経路 |
四国遍路5回目.最終回/2018年3月26日〜4月7日の13日間。
香川県内の65番〜88番結願寺/大窪寺を巡拝する。
2018年3月29日 4日目
4日目は70番〜71番〜72番〜73番〜74番〜75番善通寺までの5ヶ寺、25.0`を歩き、弘法大師生誕地の善通寺宿坊に泊まる。 |
弥谷寺の歴史・由来
標高382メートルの小高い弥谷山の中腹(標高200メートル)に位置する弥谷寺、古くから死者の霊がこの山を通り、仏の世界に旅立つという信仰があり、青森の恐山、大分の臼杵磨崖仏とともに日本の三大霊場に挙げられています。現在も、死者の霊を境内にお祀りして帰る「弥谷参り」という風習が残っており、堂内には、たくさんの位牌や遺骨が安置されています。また、3月20・21日の両日は、「春のお水祀り」と呼ばれ、たくさんの参拝者が遺骨や位牌を納めたり、先祖供養のため、参拝しています。
仁王門を入り、おびただしい数の石仏を見ながら、262段の石段を登ると、そこには銅製の高さ6メートルの金剛拳菩薩像があります。この菩薩像は、元禄年間に、住僧の覚林が建立したといわれています。そこから、108の煩悩を消すといわれる108つの階段を上がると 左手に大師堂が見えてきます。本堂へはさらに170段の石段を上る必要があり、四国88ヶ
所の中でも有数の難所といわれています(現在、有料・裏参道にて108階段前迄、車で行ける)。本堂への道中の途中には、鐘楼堂、岩窟の護摩堂や岩壁に刻まれた弥陀三尊などがあり、伝説によると84,000体が弘法大師によって刻まれたといわれています。ご縁起によると、行基菩薩が諸国を巡錫の際、この山に登ったところ、四国をはじめとする備前、備中、備後、安芸の8国が展望でき、そのことから蓮華山八国寺と名づけられ、聖武天皇が堂塔を建立し、荘田を下賜したといわれています。後に弘法大師が7歳のときこの山で学問に励み、大同二年(807)再び登山して、求聞持の秘法を修していると、五柄の剣を得るとともに金剛蔵王権現のお告げにより、千手観音を刻み、本尊とし、伽藍を再興したといわれ、剣五山の山号もこれによるものといわれております。また、寺院名もこの時、弥谷寺に改められといわれております。
現在、弘法大師が学問に励み、求聞持の法を修したといわれる場所は、獅子の岩窟と呼ばれ、大師堂奥の院としてお祀りされています。
弥谷寺の見どころ
大師堂・本堂:仁王門から石段を370段(有料・裏参道を進めば108段)上ったところにあります。石段の脇には古い墓石や五輪塔が点在しており、岩壁に埋め込まれたように建てられた堂内部は荘厳な雰囲気をしています。本堂へは、さらに170段上りきると岩山にとり囲まれるように佇んでおり、苦労してたどりついた本堂からは、讃岐平野を見渡すことができ、爽快な気持ちにさせてくれます。
獅子の岩屋 :大師堂の奥にあり、獅子が口を開いたかのような岩窟で、弘法大師が7歳の頃学問に励んだとされています。大師像のほか、阿弥陀如来像、弥勒菩薩像が安置されています。
弥陀三尊磨壁仏:大師堂から本堂へ向かう途中の岩壁にあり、大師が刻んだとされています。「磨崖仏(まがいぶつ)」と呼ばれ、真言を唱えると極楽往生ができるともいわれます。
宗 派: 真言宗善通寺派
本 尊: 千手観世音菩薩
開 基: 行基菩薩
創 建: 天平年間(729?749)
真 言: おん ばざら たらま きりく
住 所: 〒767-0031
香川県三豊市三野町大見70
電 話: 0875-72-3446
駐車場: 有料駐車場20台(500円)ジャンボタクシー(1,000円)中大型マイクロバスは通行禁止道の駅前、弥谷寺手前に無料駐車場あり
宿 坊: なし
出典:四国八十八ヶ所霊場会編
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71番・弥谷寺 御朱印 |
本堂はさらにその上。藤川旅館で会ったブラジルからのお遍路さんと再会
帰えりに俳句茶屋で讃岐うどんを食べる。 |
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わずかにも曼荼羅拝む人はただ 再び三度帰らざらまし |
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第七十二番・曼荼羅寺 |
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72番・曼荼羅寺
72番・曼荼羅寺
72番・曼荼羅寺
72番・曼荼羅寺 |
参拝日 |
2018年3月29日(平成30年) |
参拝経路 |
四国遍路5回目.最終回/2018年3月26日〜4月7日の13日間。
香川県内の65番〜88番結願寺/大窪寺を巡拝する。
2018年3月29日 4日目
4日目は70番〜71番〜72番〜73番〜74番〜75番善通寺までの5ヶ寺、25.0`を歩き、弘法大師生誕地の善通寺宿坊に泊まる。 |
曼荼羅寺の歴史・由来
縁起によると、創建は四国霊場で最も古い推古四年(596)。讃岐の領主・佐伯家の氏寺として創建され、初め「世坂寺(よさかでら)」と称していました。弘法大師がこの寺を訪れたのは唐から帰朝した翌年のこと。亡き母玉依御前の冥福を祈るためだったともいわれています。唐の青龍寺にならって伽藍を三年がかりで建立。本尊に大日如来を祀り、唐から持ち帰った金剛界と胎蔵界の曼荼羅を安置し、寺名を「曼荼羅寺」に改めました。また、四国霊場の古い案内書には、樹齢1200年を超す弘法大師お手植えの「不老松」の存在も紹介されています。高さは4m足らずですが直径が17?18mもあり、菅笠をふたつ伏せたような印象的な姿で県の自然記念物にも指定されていました。しかし、松食い虫に浸食され、平成14年に伐採されています。
曼荼羅寺の近くには「水茎の丘」という丘がありますが、ここに庵を建てて7年余り暮らしていたのが西行法師。この寺に通い、本堂前の平らな石の上でよく昼寝をしていたようで、この石は「西行の昼寝石」と呼ばれ今も同じ場所にあります。また、その横には「笠掛桜」と呼ばれる桜の木も。西行が都に帰る際、同行者が形見にと桜の木に笠をかけたまま出発したのを見て「笠はありその身はいかになりぬらんあはれはかなきあめが下かな」という歌を詠んだそうです。
曼荼羅寺の見どころ
聖観音立像 :観音堂に安置されており、158cmの檜一木造りで端麗な佇まい。平安後期の作。香川県有形文化財。四国88カ所記念切手にこの仏様のお顔が描かれています。
笠松大師:笠松と呼ばれていた「不老松」の幹に刻んだ弘法大師座像。お遍路さんは笠松大師をさすっては在りし日の姿を偲んでいます。
西行の昼寝石:平安時代末期の歌僧・西行がこの寺に通っては昼寝をしていたという石。
宗派:真言宗善通寺派 本尊:大日如来 開基:弘法大師 創建:大同2年(807)
真 言: おん あびらうんけん ばざらだどばん
住所: 〒765-0061 香川県善通寺市吉原町1380-1
電 話: 0877-63-0072
駐車場: 普通車10台・大型車4台・マイクロバス6台無料 宿坊: なし
出典:四国八十八ヶ所霊場会編
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72番・曼荼羅寺 御朱印 |
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第七十三番・出釈迦寺 |
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73番・出釈迦寺
73番・出釈迦寺
73番・出釈迦寺
73番・出釈迦寺 |
参拝日 |
2018年3月29日(平成30年) |
参拝経路 |
四国遍路5回目.最終回/2018年3月26日〜4月7日の13日間。
香川県内の65番〜88番結願寺/大窪寺を巡拝する。
2018年3月29日 4日目
4日目は70番〜71番〜72番〜73番〜74番〜75番善通寺までの5ヶ寺、25.0`を歩き、弘法大師生誕地の善通寺宿坊に泊まる。 |
出釈迦寺の歴史・由来
出釈迦寺の開基には、弘法大師幼少期の数ある伝説のひとつ「捨身ヶ嶽」縁起にゆかりがあります。それは、弘法大師が“真魚”と呼ばれていた7歳の時。我拝師山に登り「私は将来仏門に入り、仏の教えを広めて多くの人を救いたい。私の願いが叶うなら釈迦如来よ、姿を現したまえ。もし叶わぬのなら一命を捨ててこの身を諸仏に捧げる」と、断崖絶壁から身を投じました。すると、紫色の雲が湧き、釈迦如来と羽衣をまとった天女が舞い降り、雲の中で弘法大師を抱きとめました。命を救われ、願いが叶うことを示された弘法大師は、青年になって我拝師山の山頂で虚空蔵菩薩像を刻んで安置し、堂宇を建てたといいます。この場所は「捨身ヶ嶽禅定」といわれ元は札所でしたが、今は寺の奥の院となり、境内から急坂を50分ほど上がった場所にあります。弘法大師が虚空蔵菩薩の真言を100万回唱える「求聞持法」を修めたことから「求聞持院」という院号がつきました。ここで拝むとすばらしい記憶力が得られ、学業成就や物忘れにご利益があるといわれています。
また、弘法大師が身を投じた場所は、ここからさらに100mほど登った場所にあります。下を見れば足のすくむような深い谷底ですが、眼下には讃岐平野や瀬戸内海を一望できる絶景が広がります。
出釈迦寺の見どころ
捨身ヶ嶽禅定:寺の境内から50分ほど登った場所にあり、さらに100m進むと大師捨身のお行場が。毎月旧暦15日には護摩祈祷が行われています。
捨身ヶ嶽遙拝所:捨身ヶ嶽禅定まで登れなくても、ここでご宝号を唱え、祈願すれば同じぐらいのご利益があるといわれます。
本堂:法大師作の本尊・釈迦如来と、脇仏に不動明王、虚空蔵菩薩があります。
宗派: 真言宗御室派 本尊: 釈迦如来 開基: 弘法大師
創 建: 奈良後期?平安時代前期
真 言: のうまく さんまんだ ぼだなん ばく
住所: 〒765-0061 香川県善通寺市吉原町1091 電話: 0877-63-0073
駐車場: 普通車約10台・無料 宿 坊: なし
出典:四国八十八ヶ所霊場会編
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73番・出釈迦寺 御朱印 |
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我すまばよもきゑはてじ善通寺 ふかきちかいの法のともしび |
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まことにも神仏僧をひらくれば 真言加持の不思議なりけり |
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第七十六番・金倉寺 |
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76番・金倉寺 |
参拝日 |
2018年3月30日(平成30年) |
参拝経路 |
四国遍路5回目.最終回/2018年3月26日〜4月7日の13日間。
香川県内の65番〜88番結願寺/大窪寺を巡拝する。 2018年3月30日 5日目
5日目は善通寺から76番〜(77番は2日目に参拝)〜78番〜79番〜80番
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金倉寺の歴史・由来
金倉寺は、弘法大師の甥で天台宗寺門派の開祖「智証大師」が誕生した地。縁起によると、弘法大師が生まれた宝亀5年に智証大師の祖父・和気道善(わけどうぜん)が建立し、道善は「自在王堂」と名づけ、仁寿元年(851)11月に官寺となった際に開基の名をとって「道善寺」となりました。その後、唐から帰朝した智証大師が唐の青龍寺にならって伽藍を造営、薬師如来を刻んで本尊に。「金倉寺」になったのは928年、醍醐天皇の勅命で、地名の金倉郷にちなんだ寺名となったようです。
「智証大師」は、子供の頃「日童丸」と呼ばれ、たいそう賢いと評判でした。智証大師が2歳の時には、一人で遊んでいる幼い体からなんとも言えない後光が射しているのを付近の人々が見たといわれています。そして、「きっと仏様が生まれ変わったに違いない。将来は必ず立派なお方になられるだろう。」と、この地に立派な子が生まれたと喜び合ったそうです。また、5歳の時には目の前に天女が現れ、「貴方は三光天の一人、明星天子であり、虚空蔵菩薩の仮の姿。貴方が将来仏道に入るなら私がずっとお守りしましょう。」と告げられたという伝説も。この天女こそが、よその子供を食べた罪でお釈迦様に末子をとられ、子供を失った母の辛さを教えられた後に仏になったとされる「訶利帝母(かりていも)」(別名「鬼子母神(きしもじん)」)でした。こうして訶利帝母に守られて育った智証大師は、修行を重ね、仏法を広めることに精進できたといわれています。
金倉寺の見どころ
大師堂:智証大師と弘法大師の像を安置。共に「大師」の称号を得、「讃岐の五大師」に数えられています。
訶梨帝母堂(かりていもどう):本堂の左。訶梨帝母(鬼子母神)の尊像を祀っています。
乃木希典(のぎまれすけ)将軍遺品展示室:明治31年から約3年、この寺で暮らした乃木希典愛用の軍帽、肖像画、夫人からの 手紙などが保存されています。
宗 派: 天台寺門宗
本 尊: 薬師如来
開 基: 和気道善
創 建: 宝亀5年(774)
真 言: おん ころころ せんだり まとうぎ そわか
住 所: 〒765-0031
香川県善通寺市金蔵寺町1160
電 話: 0877-62-0845
駐車場: 普通車80台・200円
大型車30台・500円
マイクロバス40台・300円
宿 坊: なし
出典:四国八十八ヶ所霊場会編
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76番・金倉寺 御朱印 |
乃木希典(のぎまれすけ)将軍が明治31年(1899年)から約3年、この寺で暮らした。 |
76番・金倉寺
76番・金倉寺
本堂前に大数珠 |
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3日前に77番道隆寺はお参り済ませていたので78番・郷照寺へはショートカットして丸亀城脇を進む。 |
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ねがいをば仏道隆に入りはてて 菩提の月を見まくほしさに
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第七十七番・道隆寺 |
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参拝日 |
2018年3月27日(平成30年) |
参拝経路 |
四国遍路5回目.最終回/2018年3月26日〜4月7日の13日間。
香川県内の65番〜88番結願寺/大窪寺を巡拝する。
2018年3月27日 2日目 琴平〜多度津駅へ。77番道隆寺を参拝し電車で伊予三島へ。今日2寺目の65番三角寺を参拝して遍路宿「民宿おかだ」までの24.5`
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道骼宸フ歴史・由来
仁王門をくぐると、ブロンズの観音さんがずらりと並んで迎えてくれる。創建ころのこの付近一帯は広大な桑園で、絹の生産地であったようである。縁起によると、和銅5年、この地方の領主、和気道隆公が桑の大木を切り、小さな薬師如来像を彫造し、草堂を建てたのが寺の初めといわれる。道隆公は、周囲5メートル近い桑の大木が、夜ごと妖しい光を放っているのを見た。この光を怪しみ矢を射ると、女の悲鳴があり、乳母が倒れて死んでいた。嘆き悲しんだ道隆公は、その桑の木で仏像を彫り、草堂に安置して供養すると、不思議にも乳母は生き返ったという。
大同2年(807)、道隆公の子・朝祐公は唐から帰朝した弘法大師に懇願し、90ンチほどの薬師如来像を彫造、その胎内に父・道隆公の像を納めて本尊とした。
朝祐公は大師から授戒をうけて第2世住職となり、先祖伝来の財産を寺の造営にあてて七堂伽藍を建立、寺名は創建した父の名から「道骼宦vと号した。第3世は弘法大師の実弟にあたる真雅僧正(法光大師)が嗣ついで二十三坊を建立し、第四世の円珍(智証大師)は五大明王、聖観世音菩薩像を彫造して護摩堂を建立、次の第5世聖宝(理源大師)の代には「宝祚祈願所」となっている。高僧が相次いで寺勢は栄えたが、貞元年間(976?78)の大地震による堂塔の倒壊や、康平3年(1060)の兵火、また「天正の兵火」に遭うなど興亡をくり返しながらも、法灯を守り続けている。
道骼宸フ見どころ
潜徳院殿堂:本堂の左裏手。江戸後期の典医・京極左馬造公の墓所で、眼病にご利益があると信仰されている。
観音像:西国、秩父、坂東の百観音のほか、観音霊場として名高い各地の本尊、水子供養の観音像や交通安全の観音像など255が建立されている。
寺宝:鎌倉時代の絹本著色「星曼荼羅図」は国指定重要文化財。
宗派: 真言宗醍醐派
本尊: 薬師如来
開基: 和気道隆
創 建: 和銅5年(712)
真 言: おん ころころ せんだり まとうぎ そわか
住 所: 〒764-0022 香川県仲多度郡多度津町北鴨1丁目3番30号
電 話: 0877-32-3577
駐車場: 普通だけの場合 30台マイクロバスだけの場合 7台 大型だけの場合 4台 午前七時?午後五時・ 無料 宿坊: なし
出典:四国八十八ヶ所霊場会編
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77番・道隆寺 御朱印 |
5日目に周る中で歩く効率を考えて77番・道隆寺だけ先にお参りする。 |
77番・道隆寺
77番・道隆寺は眼なおし薬師が祀ってある |
多度津駅に戻り観音寺乗り換えて伊予三島へ。 |
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第七十八番・郷照寺 |
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参拝日 |
2018年3月30日(平成30年) |
参拝経路 |
四国遍路5回目.最終回/2018年3月26日〜4月7日の13日間。
香川県内の65番〜88番結願寺/大窪寺を巡拝する。
2018年3月30日 5日目
5日目は善通寺から76番〜(77番は2日目に参拝)〜78番〜79番〜80番
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郷照寺の歴史・由来
境内からは瀬戸内海にかかる瀬戸大橋の眺望が見事である。往時から港町として栄え、「四国の正面玄関」とでもいえる場所なので、高僧・名僧との由縁が深い霊場である。地元では「厄除うたづ大師」と呼ばれ、また、四国霊場で唯一「時宗」の霊場である。縁起によると、郷照寺は神亀2年、行基菩薩によって開創された。行基菩薩は55センチほどの阿弥陀如来像を彫造し、本尊として安置され、「仏光山・道場寺」と称した。御詠歌に「道場寺」と詠まれているのもその名残である。その後、大同2年(807)に弘法大師が訪れ、仏法有縁の地であると感得し、大師自身の像を彫造して厄除けの誓願をされた。この木造の大師像は「厄除うたづ大師」としていまも広く信仰されている。
京都・醍醐寺の開山として知られる理源大師(聖宝・832?909)がこの寺に籠山し修行したのは仁寿年間(851?54)とされ、また、浄土教の理論的基礎を築いた恵心僧都(源信・942?1017)が霊告を受けて釈迦如来の絵を奉納し、釈迦堂を建立したのは寛和年間(985?87)とされている。さらに、仁治4年(1243)には『南海流浪記』の著者である高野山の道範阿闇梨が流罪となったとき、この寺を仮寓にした。「時宗」の開祖・一遍上人(1239?89)は、正応元年(1288)に3ヵ月ほど逗留して踊り念仏の道場を開くなど、真言・念仏の2教の法門が伝わることになり、八十八ヶ所の中で特異な霊場となる。なお、道場寺を「郷照寺」と改めたのは、寛文4年(1664)のことである。
郷照寺の見どころ
改宗:寛文4年、高松初代藩主・松平頼重公のとき、寺名とともに「時宗」に改めている。
庚申堂:「庚申信仰」を伝えるお堂。本尊には6本の手をもつ青面金剛が祀られ、病魔を除く霊験があるとされる。
万躰観音洞:大師堂左手の地下回廊。全国の信者が奉納した30,000の観音小像がぴっちりと祀られている。
宗 派: 時宗
本 尊: 阿弥陀如来
開 基: 行基菩薩
創 建: 神亀2年(725)
真 言: おん あみりた ていせい からうん
住 所: 〒764-0022
香川県綾歌郡宇多津町1435
電 話: 0877-49-0710
駐車場: 普通100台 マイクロバス(境内には入れない場合)3台大型2台 午前7時?午後5時・無料
宿 坊: なし
出典:四国八十八ヶ所霊場会編
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78番・郷照寺 御朱印 |
76番から、77番道隆寺はお参り済ませていたのでショートカットして丸亀城脇を進み、78番・郷照寺へ到着。
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78番・郷照寺 |
境内で4日前から同じルートの和歌山姉妹と又遭遇しばし歓談 |
78番・郷照寺 |
79番・天皇寺へのお遍路道は古い商店街アーケードを抜けていく。 |
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十楽の浮世の中をたずねべし 天皇さえもさすらいぞある |
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第七十九番・天皇寺 |
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八十八名物ところてん
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参拝日 |
2018年3月30日(平成30年) |
参拝経路 |
四国遍路5回目.最終回/2018年3月26日〜4月7日の13日間。
香川県内の65番〜88番結願寺/大窪寺を巡拝する。 2018年3月30日 5日目
5日目は善通寺から76番〜(77番は2日目に参拝)〜78番〜79番〜80番
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天皇寺の歴史・由来
寺伝によると、天平年間に金山の中腹に、行基菩薩によって開創され、弘法大師によって荒廃した堂舎を再興されている。大師が弘仁年間(810?24)にこの地方を訪ね、弥そ場という沢水が落ちる霊域にきた際、ひとりの天童が現れて閼伽井を汲み、大師にしたがい給仕をした。この天童は、金山を鎮守する金山権現であった。天童は、永くこの山の仏法を護るようにと誓って、持っていた宝珠を大師に預けた。大師はこの宝珠を嶺に埋めて仏法を守護し、その寺を摩尼珠院と号した。大師はまた、弥蘇場の霊域にあった霊木で本尊とする十一面観世音菩薩をはじめ、脇侍として阿弥陀如来、愛染明王の三尊像を彫造し、堂舎に安置した。この本尊の霊験が著しく、諸堂が甍をならべ、境内は僧坊を二十余宇も構えるほどであった。
保元元年(1156)7月、崇徳上皇(天皇在位1123?41)は「保元の乱」に敗れ、京都・知足院に入られて落飾された。直後の同月23日、上皇は讃岐国に遷幸されるよう勅命があり、末寺の長命寺本堂を皇居と定められた。上皇は、阿弥陀如来への尊崇が深く守護仏とされていたが、長寛2年(1164)御寿46年で崩御された。二条天皇(在位1158?65)は、上皇の霊を鎮めるため崇徳天皇社を造営、また、後嵯峨天皇(在位1242?46)の宣旨により永世別当職に任じられ、現在の地に移転された。 明治新政府の神仏分離令により、摩尼珠院は廃寺とされたが、天皇社は白峰宮となって初代神官には摩尼珠院主が赴任した。明治20年、筆頭末寺の高照院が当地に移り、金華山高照院天皇寺として今日にいたっている。
天皇寺の見どころ
三輪鳥居:天皇寺の正面にある。普通の明神鳥居の左右にやや小さい脇鳥居を組み合わせた珍しい鳥居で、奈良・大神神社など全国で3ヶ所にしかない。この横には源頼朝寄進の下乗石、上段には崇徳天皇社が配置されている。
災禍:応仁から天正末に至るまで兵火により焼亡しているが、松平頼重高松初代藩主の庇護を受けて復興している。
宗 派: 真言宗御室派
本 尊: 十一面観世音菩薩
開 基: 弘法大師
創 建: 天平年間(729?749)
真 言: おんまか きゃろにきゃ そわか
住 所: 〒762-0021
香川県坂出市西庄町天皇1713-2
電 話: 0877-46-3508
駐車場: 普通、マイクロバスは境内の東。大型は県道33号沿線を利用している
宿 坊: なし
出典:四国八十八ヶ所霊場会編
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79番・天皇寺 御朱印 |
日本武尊(やまとたけるのみこと)ゆかりの「弥蘇場(やそば)の泉」が湧いている。この泉を訪れた弘法大師が、霊感を得て堂宇を建立。保元の乱(1156)で讃岐に配流された崇徳上皇の棺がこの寺に安置されたことから、二条天皇が崇徳天皇社を建立。寺は崇徳天皇社の別当寺となり、天皇寺と改名した。
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79番・天皇寺
79番・天皇寺本堂 |
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国を分け野山をしのぎ寺々に 詣れる人を助けましませ |
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第八十番・国分寺 |
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80番・国分寺 |
参拝日 |
2018年3月30日(平成30年) |
参拝経路 |
四国遍路5回目.最終回/2018年3月26日〜4月7日の13日間。
香川県内の65番〜88番結願寺/大窪寺を巡拝する。 2018年3月30日 5日目
5日目は善通寺から76番〜(77番は2日目に参拝)〜78番〜79番〜80番
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国分寺の歴史・由来
創建当時の遺構をよく残した寺で、旧境内の全域が国の特別史蹟。本堂は、全面と背面に桟唐戸のある鎌倉中期に再建されたものです。また周辺には創建当時の本堂の礎石・33個が点々と配置されていて、唐招提寺の金堂に匹敵する規模を思わせます。また、山門の右手には七重の塔の礎石も残っており、現存していれば京都・東寺の五重塔を超す大塔だったといわれています。寺の創建は聖武天皇の時代。勅命を受けた行基菩薩が巨大な十一面千手観音像を刻み、本尊としました。その後、弘仁年間(810?823)に弘法大師が霊場に定めますが、「天正の兵火」で堂塔のほとんどを焼失。藩主・生駒氏や松平氏によって再興され、今に至ります。
また、この寺で有名なのは四国最古の梵鐘(ぼんしょう)。当時の藩主・生駒一正公は、当時この鐘を高松城の鐘にしようと、田1町(ちょう)と引き換えに手に入れます。ところが、城へ運ぼうとすると思ったより重く、ひと苦労。しかも、城についた途端音がならず、おまけに城下では悪病が流行。そして、自身も病に倒れた 一正公の枕元に毎夜鐘が現れ「もとの国分へ帰りた
い」と泣くのです。そこで結局、鐘は国分寺へ返すことに。城に運んだ時と違い、今度はなぜか軽々と運べた上、鐘が国分寺へ戻った途端悪病は治まり、再び美しい音色を聞かせるようになったという伝説が残っています。
国分寺の見どころ
本堂:鎌倉時代、旧講堂後に再興された国の重要文化財。本尊はケヤキの一本造りの秘仏。
梵鐘:創建当時から残る四国最古の鐘。興味深い伝説が多いことでも有名。
弁財天:国分寺には、さぬき七福神の中で紅一点の「弁財天」がある。美・徳・福にご利益が。
宗 派: 真言宗御室派
本 尊: 十一面千手観世音菩薩
開 基: 行基
創 建: 天平13年(741)
真 言: おん ばさら たらま きりく
住 所: 〒769-0102
香川県高松市国分寺町国分2065
電 話: 087-874-0033
駐車場: 普通車20台、大型車5?6台マイクロバス8?9台納経時間無料
宿 坊: なし
出典:四国八十八ヶ所霊場会編
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80番・国分寺 御朱印
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80番・国分寺 本堂参拝中信じられない光景に遭遇
『本堂で納経中、あろうことか寺男が、納め札入れの箱のいっぱい詰まった納め札をゴミと一緒にゴミ袋に無造作に廃棄しているのを目にする。参拝者の祈りの心のこもった納め札をゴミと一緒にするとは言語道断。この寺の品位がうかがわれ情けない思い。お遍路していて初めての経験。こういう寺がある限り世界遺産登録の資格はない』 |
80番・国分寺本堂
80番国分寺門前の「えびすや」に宿泊 |
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