HOME 海外紀行 日本紀行  札所紀行 温泉紀行 日曜名画座 RETIREMENT HIT-PRADE MAMI ARCHIVES PROFILE SITE-MAP
          

Ken & Mary's Second Life
おくのほそ道
『おくのほそ道』で芭蕉が詠んだ句は五十句、詠まれた場所を辿る旅
日光路
(東京~埼玉~栃木~福島)
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
東京都江東区深川 草の戸も 住替(すみかわ)る代(よ)ぞ ひなの家
(意)戸口も草で覆われた深川の庵も新しい人が住み、雛人形が飾られるような華やか家になるのか

JR越中島駅からスタート

採荼庵跡へ
おくのほそ道
おくのほそ道 一六八九年(元禄二年)三月二七日 (新暦)5月16日
月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。 舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふるものは、日々旅にして旅を栖(すみか)とす。 古人も多く旅に死せるあり。
よもいづれの年よりか、片雲(へんうん)の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋江上(こうしょう)の破屋(はおく)にくもの古巣をはらひて、やや年も暮、春立てる霞の空に白河)の関こえんと、そぞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神)のまねきにあひて、取るもの手につかず。ももひきの破れをつづり、笠の緒付けかえて、三里に灸すゆるより、松島の月まず心にかかりて、住める方は人に譲り、杉風(さんぷう)が別墅(べっしょ)に移るに、
『草の戸も 住替る代ぞ ひなの家』 面八句(おもてはちく)を庵の柱にかけ置く。
(一) 日光路
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
(一) 日光路
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
(一) 日光路
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
(一) 日光路
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家

採荼庵(さいとあん)

採荼庵跡の脇に仙台堀川
採荼庵は江戸の俳人杉山杉風の庵で家業は魚問屋。芭蕉の門人.蕉門十哲の一人に数えられ、芭蕉を経済的に支援したパトロンとしても知られる。芭蕉は奥の細道に出る前しばらくここで過ごし、門人たちと別れを惜しんだのち奥州へと旅立った。

2021年4月4日、おくのほそ道を辿る旅一回目。
コロナ防疫対策して 早朝5時に出発。JR越中島駅から歩きはじめ、清澄公園を抜け20分程で芭蕉が旅立つ前に滞在した『採荼庵跡』へ。
芭蕉が門弟 曾良を伴ない 「おくの細道」に旅立ったのは、今から332年前1689年5月16日(旧暦3月27日) 芭蕉46歳、五代将軍徳川綱吉「生類憐れみの令」が施行されていた時代。

芭蕉はここから船に乗ったのではないかといわれている。

おくのほそ道   芭蕉翁顕彰会--参照
元禄2年(1689)3月27日〜 芭蕉(46歳)は門人曾良を伴い江戸を発ち、奥羽・北陸の各地をめぐり、8月20日過ぎに大垣へ着くまでの、距離約2,400キロ、日数約150日に及ぶ長旅である。旅の目的は、歌人能因や西行の足跡を訪ね、歌枕や名所旧跡を探り、古人の詩心に触れようとした。芭蕉は各地を旅するなかで、永遠に変化しないものごとの本質「不易」と、ひと時も停滞せず変化し続ける「流行」があることを体験し、この両面から俳諧の本質をとらえようとする「不易流行」説を形成していく。旅をした土地の俳人たちとの交流は、その後の蕉門形成や、紀行文『おくのほそ道』に大きな影響をもたらす。 『おくのほそ道』は随行の曾良が旅の事実を書き留めた『曾良旅日記』と相違があり、芭蕉は文芸作品として執筆している。芭蕉の紀行文としては質的にも生涯の総決算的な意義をもつ。

おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道


『おくのほそ道』辿る旅は「採荼庵」から隅田川に出て芭蕉は千住まで船で下ったが、隅田川テラス散歩道を通って歩く。約12㌔⇒地図


両国橋~蔵前橋へ

隅田川テラスの句碑

隅田川テラスは新大橋~両国橋~蔵前橋~厩橋~駒形橋~言問橋~白髭橋までいくつもの江戸の名残の橋の下を通っていく。白髭橋で隅田川を渡り左岸に移る。




隅田川テラス左岸から振り返ると下を抜けてきた東京スカイツリー。


桜満開の都立 汐入公園

東京都汐入公園を抜けると最後の千住汐入大橋を渡って北千住駅まではあと一息。
朝6時半から歩き始め3時間かかって北千住駅に到着。西口の宿場町通りへ。


北千住駅
5月16日は『旅の日』
芭蕉が「おくのほそ道」に出発した1689年5月16日(元禄2年3月27日)を1988年日本旅のペンクラブ"が『旅の日』に制定

Ken & Mary's Second Life
おくのほそ道
『おくのほそ道』で芭蕉が詠んだ句は五十句、詠まれた場所を辿る旅
日光路
(東京~埼玉~栃木~福島)
(一) 日光路
2021年4月4日~9日
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家



北千住西口:旧日光街道 宿場町通り/『奥の細道』芭蕉はこの辺りから歩き始めた。
おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道

おくのほそ道
おくのほそ道  一六八九年(元禄二年)三月二七日(新暦)5月16日
弥生も末の七日、あけぼのの空朧々として、月はありあけにて光おさまれるものから、富士の嶺かすかに見えて、上野・谷中の花の梢、またいつかはと心ぼそし。むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗りて送る。千じゆといふ所にて舟をあがれば前途三千里の思い胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそそぐ
『行く春や 鳥啼魚の 目は泪  (ゆくはるや とりなきうおの めはなみだ)
これを矢立の初(はじめ)として、行く道なを進まず。人々は途中(みちなか)に立ちならびて、後ろかげの見ゆるまではと見送るなるべし。
2021年4月4日
日光路 草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
足立区 千住橋戸町 行(ゆく)春や 鳥啼(とりなき)魚の 目は泪(なみだ)
(意)春が過ぎ去るのを惜しんで鳥も魚も目に涙を浮かべているようだ。これを旅で詠む第一句とした。見送りの人々は別れを惜しんでなかなか足が進まない。ようやく別れて後ろを振り返ると、みんな道中に立ち並んでいる。後ろ姿が見える間は見送ってくれるつもりだろう
芭蕉は船を千住で降り、
矢立初め(旅日記の始め)
として詠んだ句。

北千住駅に戻り予定より30分早く東武浅草線10:05に乗る。
僅か10分で10:15草加駅着。


草加駅

草加駅から草加松原遊歩道(旧日光街道)に出る。硬めでぱりっとした食感の草加せんべいで有名な土地らしく煎餅屋さん多数。
芭蕉も歩いた旧日光街道の面影が残った遊歩道は、綾瀬川沿いの旧日光街道の松並木。「日本の道100選」「利根川百景」に指定されている。


札場河岸公園芭蕉像

矢立橋



札場河岸公園望楼
芭蕉と曾良は宿泊せず通り過ぎた草加宿、松原遊歩道に架かる二つの木橋、百代橋と矢立橋


草加松原遊歩道/綾瀬川

百代橋
草加宿 松原遊歩道 百代橋
おくのほそ道
おくのほそ道  一六八九年(元禄二年)三月二七日(新暦)5月16日
ことし元禄二とせにや、奥羽長途の行脚ただかりそめに思ひたちて、呉天に白髪の恨みを重ぬといへども、耳にふれていまだ目に見ぬ境、もし生て帰らばと、定なき頼みの末をかけ、その日ようよう早加といふ宿にたどり着きにけり。痩骨の肩にかかれるもの、まずくるしむ。ただ身すがらにと出で立ちはべるを、帋子(かみこ)一衣は夜の防ぎ、ゆかた・雨具・墨筆のたぐひ、あるはさりがたき餞(はなむけ)などしたるは、さすがに打捨がたくて、路頭の煩(わずらい)となれるこそわりなけれ。

東武線・獨協大学前駅から乗って春日部で乗換え今日の宿泊地 久喜駅へ向かう。


久喜駅

おくのほそ道を辿る旅一日目は久喜のスーパーホテルに宿泊。駅から10分ほどで、天然温泉付きのビジネスホテル。朝食込み5100円。
15時チェクイン時に清算を済ませ、フロント前の棚から、好みの枕と部屋着を持って部屋へ。着替えて早速一階の温泉に入る。天然温泉とのふれこみだが3人も入るといっぱいになる位の小さな湯船だが気持ちいい。今日の歩行数 36007歩.25㌔


小さい天然温泉

久喜スーパーホテル
2021年4月5日
2日目 日光
 
4月5日 2日目の朝 久喜スーパーホテル一階レストランで朝食。
マスク、体温測定、アクリル板で仕切られた席でいただく。一人客が圧倒的に多い。

(一) 日光路
2021年4月4日~9日
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家


スーパーホテル朝食




おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道



今日 2日目は室の八島に寄って、栃木県日光杉並木街道など歩く予定。


久喜駅

久喜駅から電車で栗橋駅で東武鉄道に乗換え野州大塚駅へ。


栗橋駅で東武鉄道に乗換え

東武鉄道・野州大塚駅は無人駅。住宅街を抜けて徒歩15分、室の八島(大神神社)前に出る。


東武鉄道・野州大塚駅

室の八島(大神神社)

大神神社の境内の池の中に石橋や、朱塗の橋がかかる島が八つあり、それぞれの島に筑波神社、天満宮等8つの神社が鎮座し、歌枕として知られ敷地内に芭蕉の句碑「糸遊に結ひつきたる煙哉」がある。

室の八島(大神神社)
 
室の八島(大神神社)  (参照)栃木ふるさと学習㌻⇒
おくのほそ道
おくのほそ道 一六八九年(元禄二年)三月二九日(新暦)5月18日  室の八嶋に詣す。
同行曽良がいわく、「この神は木(こ)の花さくや姫の神ともうして富士一躰なり。無戸室(うつむろ)に入りて焼きたまふちかひのみ中に、火々出見(ほほでみ)のみこと生れたまひしより室の八嶋ともうす。また煙を読習しはべるもこの謂(いわれ)なり」はた、このしろといふ魚を禁(きん)ず。縁記のむね世に伝ふことも侍し。
おくのほそ道  一六八九年(元禄二年)四月一日(新暦)5月19日
丗日(みそか)、日光山の麓に泊る。あるじの云けるやう、「わが名を仏五左衛門といふ。よろず正直をむねとするゆえに、人かくはもうしはべるまま、一夜の草の枕もうとけて休みたまへ」といふ。いかなる仏の濁世塵土(じょくせじんど)に示現して、かかる桑門の乞食順礼ごときの人をたすけたまふにやと、あるじのなすことに心をとどめてみるに、ただ無智無分別にして、正直偏固の者なり。剛毅木訥(ごうきぼくとつ)の仁(じん)に近きたぐひ、気禀(きひん)の清質もっとも尊ぶべし

室の八島(大神神社)句碑

当時 惣社村の大神神社にある八つの島と池が、歌枕「室の八島」だとされ芭蕉は「糸遊に結びつきたる煙かな」の句を残したが『おくのほそ道』に収められていない。 糸遊=かげろう。野州大津駅へ戻って電車で新栃木駅に向かう。

(一) 日光路
2021年4月4日~9日
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
(一) 日光路
2021年4月4日~9日
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
(一) 日光路
2020年9月19日~
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
(一) 日光路
2021年8月~2022年8月
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家


東武鉄道新今市駅
おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道





新栃木駅から東武日光行きに乗車、11:37分下今市に到着。下車して杉並木街道へ。下今市駅国道119号を西に向かうと間もなく杉並木街道入口へ。

東照宮/日光杉並木街道

杉並木街道は、国道119号と並行して続き、日光市内に近くなると車道と合流する。ほとんどは静かな歩道が続いていた。日光駅まで杉並木街道では誰一人歩く人に出会わなかった。


約9㌔JR日光駅~東武日光駅まで約3時間かかって到着。


JR日光駅~東武日光駅を通って日光街道を東照宮向って歩く。


日光/神橋 は二荒山神社の建造物。

神橋前に到着。左折し右上の東照宮下を進むと間もなく今夜の宿「ホテル春茂登」が見えてくる。


姉妹ホテル「日光千姫物語」は「春茂登」の部屋目の前

今日の宿 春茂登は通りを挟んで目の前に姉妹ホテル「日光千姫物語」お風呂はそちらに入りに行く  2泊3日 2食付き(部屋食)で\20700-格安。

18時~夕食。部屋食なのはありがたいが、一人で食べる夕食は味気ない。
4月5日 歩行数 24803歩 17.3㌔



4月6日 3日目
裏みの滝&東照宮

2日目 6時半ラジオ体操、7時から春茂登の朝食。今日は午前中、芭蕉も訪ねた「裏見の滝」を見て、午後から東照宮を見学する予定。

(一) 日光路
2021年4月4日~9日
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
(一) 日光路
2021年4月4日~9日
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
(一) 日光路
2020年9月19日~
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
(一) 日光路
2021年8月~2022年8月
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家



朝食

おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道





7時半、宿を出発「裏見の滝」は片道約4㌔の山道を歩く⇒
宿を出て国道122号線を中禅寺湖方面に歩くと直ぐの所に「日光田母沢御用邸記念公園」前を通って進む。

日光田母沢御用邸記念公園
県立の都市公園。皇太子時代の大正天皇の静養所として造営された御用邸の建物と庭園を公園として整備一般公開している。明治期以降に数多く造られた御用邸建築のうち、全体がほぼ完存する唯一と貴重
出発して一時間ほど滝の入口駐車場に着く。
そこから更に15分程山道をのぼると滝に続く良く整備された木造の道に出る。



芭蕉が歩いたころはこんなに整備された道でなくもっと難渋して登ったことと思われる。

   日光裏みの滝へ遊歩道を進む

Ken & Mary's Second Life
おくのほそ道
『おくのほそ道』で芭蕉が詠んだ句は五十句、詠まれた場所を辿る旅
日光路
(東京~埼玉~栃木~福島)
(一) 日光路
2021年4月4日~9日
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家


4月6日 3日目
裏みの滝&東照宮

日光「裏みの滝」
おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道
おくのほそ道
草の戸も住替る代ぞひなの家 一六八九年(元禄二年)四月二日 (新暦)5月20日
黒髪山は霞かかりて、雪いまだ白し。  
剃捨て 黒髪山に 衣更 曽良 (そりすてて くろかみやまに ころもがえ)
曽良は河合氏にして、惣五郎といへり。芭蕉の下葉に軒をならべて、よが薪水(しんすい)の労をたすく。このたび松島・象潟の眺ともにせんことを悦び、かつは羈旅(きりょ)の難をいたはらんと、旅立つ暁髪を剃りて墨染にさまをかえ、惣五を改て宗悟とす。よって黒髪山の句あり。「衣更」の二字力ありてきこゆ。廿余丁(にじゅうよちょう)山を登つて瀧あり。岩洞の頂より飛流して百尺、千岩の碧潭(へきたん)に落ちたり。岩窟に身をひそめ入りて瀧の裏より見れば、裏見の瀧ともうし伝えはべるなり。
暫時は 瀧に籠るや 夏の初   (しばらくは たきにこもるや げのはじめ)
2021年4月6日
日光路 (4)日光裏みの滝
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
栃木県日光市日光 暫時(しばらく)は 滝に籠(こも)るや 夏(げ)のはじめ
(意) 滝の裏の岩窟に身をひそめていると、僧が夏に籠って修行する気持ちになり身も引き締まる。


「裏みの滝」に到着。芭蕉が来た300年前には滝の左から登って滝の裏側に出て、名前の通り滝の裏側から見られただろう。その道も今は崩れて通行禁止になっている。


森川許六(蕉門十哲)
「奥の細道行脚之図」


「裏みの滝」はとても風情があり激しく流れ落ちる見応えのある滝。
『暫時は 滝に籠るや 夏のはじめ』いい句も浮かぶというもの。


裏見の滝から同じ道を下って宿に帰る。
昨日ちょっとしたトラブル「途中駅でsuicaが自動改札機に反応しなくなるがあり日光駅で再発行してもらおうと、宿から日光駅へ10:20分の送迎バスに間に合ったので乗せてもらう。駅の窓口でそれを申し出ると気持ちよく受付けてくれたが、明日以降でないと受取れないとのこと、今日来ておいてよかった。

 JR日光駅天井東照宮薬師堂と
同じ「龍の龍」パネルがある

suicaカード磁気不具合再発行してもらう

JR日光駅から大通りを歩いて東照宮に向かう。コロナ禍でいつも観光客の半数は外国人と言われる日光だが、全く見かけない、日本人すら通りを歩く人は本当に少なく商店も宿もこんな時代に遭遇して気の毒。


Ken & Mary's Second Life
おくのほそ道
『おくのほそ道』で芭蕉が詠んだ句は五十句、詠まれた場所を辿る旅
日光路
(東京~埼玉~栃木~福島)
(一) 日光路
2021年4月4日~9日
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家





輪王寺 総本堂 三仏堂
おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道
日光 元禄2年4月1日(1689年5月19日)江戸を出て3日後に詠まれた句
おくのほそ道
草の戸も住替る代ぞひなの家 一六八九年(元禄二年四月一日)(新暦)5月19日
卯月朔日(ついたち)、御山に詣拝す。往昔(そのむかし)この御山を二荒山と書きしを、空海大師開基の時、日光と改めたまふ。千歳未来をさとりたまふにや。今この御光一天にかかやきて、恩沢八荒(おんたくはっこう)にあふれ、四民安堵の栖(すみか)穏なり。猶(なお)憚多くて筆をさし置ぬ。
あらたふと 青葉若葉の 日の光 (あらとうと あおばわかばの ひのひかり)
2021年4月4日
日光路 草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
栃木県日光市山内 あらたふと 青葉若葉の 日の光
(意)日光の霊山の木々の青葉若葉に映る日の光は、神霊の荘厳そのもの、なんと尊くありがい。



神橋したから東照宮に向って上がっていくと初めに輪王寺の社殿。
その脇を出て右の参道を進むと正面が東照宮の石の大鳥居が構えている。



日光東照宮「石の大鳥居」は1618年(元和4年)筑前 黒田長政(軍師官兵衛の長男)によって奉納された。


東照宮正面「石の大鳥居」

徳川家康を祀る日光東照宮、現在の社殿群は、ほとんどが寛永13年(1636年)3代将軍家光による「寛永の大造替」で建て替えられたもの。芭蕉がお参りしたのは1689年、家光により造営された僅か53年後で芭蕉と曾良の驚き多き想いはどんなだったろう。

 重要文化財「神厩舎」の三猿「見ざる・言わざる・聞かざる」 

眠り猫

東照宮の本殿の裏に左甚五郎の作と伝えられる眠り猫、下をくぐって長い石段を登った先が、奥宮(奥社)徳川家康公のお墓がある。


奥宮(奥社) 入口一対の狛犬 吽像 阿像

徳川家康公 墓
徳川家康公 東照宮HPより抜粋
家康公は元和2年(1616年)4月17日駿府城(静岡市)で75歳の生涯を終え、直ちに久能山に神葬されました。そして御遺言により、一年後の元和3年4月15日、久能山より現在の地に移されおまつりされました。正遷宮は、同年4月17日二代将軍秀忠公をはじめ公武参列のもと厳粛に行われ、ここに東照社として鎮座しました。その後正保(しょうほ)2年(1645)宮号を賜り、東照宮と呼ばれるようになりました。 尚、現在のおもな社殿群は、三代将軍家光公によって、寛永13年(1636)に造替された。

陽明門
 陽名門別名「日暮の門」正面中央に位置する白い木に彫られた「目貫きの龍と龍馬」
陽名門の天井画、狩野探幽により描かれた
「昇龍」別名「八方睨みの龍」と「降龍」別名「四方睨みの龍」
陽明門の左右に伸びる国宝「廻廊」

東照宮を出てパワースポット上新道を通って「二荒山神社」「輪王寺 大猷院」へ


上新道
石の大鳥居から右に折れた上新道を進んだ先「二荒山神社」「日光廟 大猷院」が並んで建つ。

日光二荒山神社HPより参照
御祭神 二荒山大神 ⇒親子3神を祀る
      大己貴命(おおなむちのみこと)父
      田心姫命(たごりひめのみこと)母
      味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)子
古くより、二荒山(男体山)⇒標高2,486㍍を神の鎮まり給う御山として尊崇したことから、御山を御神体山と仰ぐ神社、日光の氏神様でもあり境内は、日光国立公園の中枢をなす、日光連山をはじめとて、御神域は3,400㌶におよぶ広大な境内地です。華厳の滝や下りのいろは坂、重要文化財の神橋など日光市内に3社鎮座しています。 男体山山頂⇒奥宮 中禅寺湖畔⇒中宮祠 山内(市内)⇒御本社

日光廟 大猷院(たいゆういん)

日光廟 大猷院(たいゆういん)
は徳川三代将軍「家光公」の廟所。


日光東照宮見学はここで終る。
日光東照宮には何度か来たが今度ほどゆっくり見たのは初めて。一人旅の良いところかもしれない。「二荒山神社・大猷院」の入口が西参道になっていて坂を下り終えると、宿の春茂登はすぐ前。
宿に帰ると今日も早速タオルを持って、姉妹ホテル「日光千姫物語」のお風呂に入りに行く。広く大きくいいお風呂。内風呂、サウナ、露天風呂も入りゆっくり汗を流す


2日目の夕食は18時から今日も一人で部屋でいただく。今夜は牛肉のしゃぶしゃぶがついた。格安なのに部屋で食べられ贅沢させてもらいありがたい。 一人夕食も3日目になるとだいぶ慣れてきた。4月6日 歩行数 25080歩 17.5㌔


4月7日 那須塩原


4月7日目 4日目 6時半ラジオ体操して7時から朝食。
昨夜チェックアウト手続きしておいたのでご飯食べすぐに出発。今日は那須塩原へ。

(一) 日光路
2021年4月4日~9日
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
(一) 日光路
2021年4月4日~9日
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
(一) 日光路
2020年9月19日~
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
(一) 日光路
2021年8月~2022年8月
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家


JR日光駅
おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道






JR日光駅で昨日頼んだsuicaカードを受取り8:10発電車で宇都宮で乗換え那須塩原9:58着。今日の宿/那須ミッドシティホテルは駅から徒歩3分の案内があったので、湯本温泉に行く前に荷物を預けていく。

草の戸も住替る代ぞひなの家   一六八九年(元禄二年)四月三日 (新暦)5月21日
那須の黒ばねといふ所に知人あれば、これより野越にかかりて、直道をゆかんとす。遥に一村を見かけて行くに、雨降日暮る  農夫の家に一夜をかりて、明ればまた野中を行く。そこに野飼の馬あり。草刈る男の子になげきよれば、野夫といへどもさすがに情しらぬには非ず。「いかがすべきや。されどもこの野は縦横にわかれて、うゐうゐしき旅人の道ふみたがえむ、あやしう侍れば、この馬のとどまる所にて馬を返したまへ」と、かしはべりぬ。 ちいさき者ふたり、馬の跡したひて走る。独は小姫にて、名をかさねといふ。聞きなれぬ名のやさしかりければ、
   かさねとは 八重撫子の 名成べし(かさねとは やえなでしこの ななるべし)曽良
頓て人里にいたれば、あたひを鞍つぼに結付けて、馬を返しぬ。
おくのほそ道

ホテルに荷物を預け、駅に戻って、10:40分発の那須湯本温泉行きバスに乗る。
約一時間で温泉バスターミナルに到着 \1020。那須湯本温泉は温泉らしい賑わいや情緒がまったくなく拍子抜け。バスの進行方向向こうに温泉神社の鳥居が見え上がっていく。

那須 温泉神社と那須与一 Wikipediaより
那須余一は那須地方の豪族である那須太郎資隆の十一男として生れた。十一番、十あまり一で余一と命名され、(後に与一に改名)源義経の東国参陣の時これに従い、以後義経の騎下となって源平戦を戦った。屋島の戦いで扇の的を射て名声を上げ20万石を頼朝公から賜わる。温泉神社と余一との深いつながりを表すものとして「平家物語」にはこのように記載されている。『南無八幡大菩薩、別しては吾が国の神明、日光権現宇都宮、那須温泉大明神、願わくはあの扇の真中射させてたばえ給え』凱旋の後その神恩の深いことを謝し、大社殿を寄進その誠を表わした。他鏑矢、蟇目矢、征矢、桧扇を奉納、三番目の鳥居も余一が奉納したもの。
『平家物語絵巻』巻十一 扇の的

源氏軍が意外に少数と知った平氏軍は、船を屋島の岸に寄せ激しい矢戦を仕掛けてきた。『平家物語』によれば、平氏の猛攻に義経の身も危うくなる。夕刻になり休戦状態となると、平氏軍から美女の乗った小舟が現れ、竿の先の扇の的を射よと挑発。外せば源氏の名折れになると、義経は手だれの武士を探し、畠山重忠に命じるが、重忠は辞退し代りに下野国・那須十郎を推薦する。十郎も傷が癒えずと辞退し、弟の那須与一を推薦した。与一はやむなくこれを引き受ける。与一は海に馬を乗り入れると、弓を構え、『南無八幡大菩薩、別しては吾が国の神明、日光権現宇都宮、那須温泉大明神、願わくはあの扇の真中射させてたばえ給え』加護を唱え、もしも射損じれば、腹をかき切って自害せんと覚悟し、鏑矢を放った。矢は見事に扇の柄を射抜き、矢は海に落ち、扇は空を舞い上がり、春風に一もみ二もみされ、そしてさっと海に落ちた。『平家物語』の名場面、「扇の的」である。美しい夕日を後ろに、赤い日輪の扇は白波を浮きつ沈みつ漂い、沖の平氏は船端を叩いて感嘆し、陸の源氏は箙を叩いてどよめいた。これを見ていた平氏の武者、年五十ほど、黒革おどしの鎧を着、白柄の長刀を持っている者が、興に乗って扇のあった下で舞い始めた。義経はこれも射るように命じ、与一はこの武者も射抜いて船底にさかさに射倒した。平家の船は静まり返り、源氏は再び箙を叩いてどよめいた。あるものは「あ、射た」といい、あるものは「心無いことを」といった。 怒った平氏は再び攻めかかる。激しい合戦の最中に義経が海に落とした弓を敵の攻撃の中で拾い上げて帰り「こんな弱い弓を敵に拾われて、これが源氏の大将の弓かと嘲られては末代までの恥辱だ」と語った『平家物語』の「弓流し」のエピソードはこの際のことである。

温泉神社は屋島の闘いで名を馳せた那須与一と関わりがある。しかし芭蕉の時代、与一がその折 願いを込めたのはこの神社でなく那須神社(栃木県大田原市)八幡宮であると伝えられていた。つまり芭蕉は殺生石を訪れた時 那須与一に触れていない。


殺生石は溶岩、付近は火山ガスが噴出し硫黄の匂いがただよっている。芭蕉も目にした光景は当時も同じ。


Ken & Mary's Second Life
おくのほそ道
『おくのほそ道』で芭蕉が詠んだ句は五十句、詠まれた場所を辿る旅
日光路
(東京~埼玉~栃木~福島)
(一) 日光路
2021年4月4日~9日
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家


那須 殺生石
おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道



おくのほそ道
草の戸も住替る代ぞひなの家   一六八九年元禄二年四月一九日(新暦)6月6日
是より殺生石に行。館代より馬にて送らる。此口付のおのこ、「短冊得させよ」と乞。やさしき事を望侍るものかなと、殺生石は温泉の出づる山陰にあり。石の毒気いまだほろびず。蜂蝶のたぐひ真砂の色の見えぬほどかさなり死す。
『野を横に馬牽むけよほとゝぎす』 (のをよこに うまひきむけよ ほととぎす)
2021年4月7日
日光路 草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
栃木県那須郡那須湯本 野を横に 馬牽(うまひき)むけよ ほとゝぎす
(意)那須野を馬に乗り進んでいるとホトトギスが啼いた。馬方さん、馬をそちらへ向けてください。

殺生石 横芭蕉句碑『石の香や 夏草赤く 露暑し』

殺生石から下った先に名湯「鹿の湯」がある。建物は明治時代、玄関は大正時代に建造現在もその姿を受け継いる。このお湯に浸かるのを、この旅行の楽しみにしていた ひとつ、ゆっくり いい湯をいただいていく。

『鹿の湯』HPより参照

那須温泉元湯・鹿の湯は、七世紀前半、約千三百年前の舒明天皇の御世に開湯されたと伝わり、狩野三郎行広という者が山狩の際に、射損じて逃げる鹿を追って山奥に入ると、鹿は傷ついた体を温泉で癒していた。そこで鹿により発見された「鹿の湯」と名づけた。公式には、聖武天皇の御世、天平10年(738年)正倉院文書のなかに那須温泉の記録が残されている。江戸時代には、在府の大名はしばしば那須温泉に湯治に出かけ、正保2年(1645年)盛岡城主・阿部対馬守より将軍家に出された湯治願も残されている。


那須湯本温泉・名湯「鹿の湯」

「鹿の湯」

入口で入浴料500円を支払い下足を預け、きれいに手入れされた廊下を進むと、左が女湯、右が男湯、脱衣場からすぐにお風呂場、洗い場はない、打たせ湯下の桶で軽く流して湯船に進む。 湯船は6つそれぞれ湯温が表示され、手前から41℃/42℃/43℃/44℃/46℃/48℃の6つの浴槽。奥の46℃48℃は遠慮する。 


湯本温泉バスターミナル

鹿の湯で入浴後一休みしてから、坂道を上がってすぐの湯本温泉バスターミナルに戻り、12:45発那須塩原駅行き~13:45分 那須塩原駅に帰ってくる。
東口にまわって、明後日雲巌寺に行くコミュニティバス時間を確認してホテルへ。


那須ミッドシティホテル 部屋の正面 那須塩原駅が見える

飲食店はコロナ禍の中敬遠して、途中でコンビニにより、弁当+サラダ+スープなど買ってホテルの部屋で一人夕食。そしてお風呂で洗濯。
4月7日 歩行数 13559歩 9.5㌔

 
4月8日 5日目

遊行柳から白河の関跡をまわり須賀川へ

那須ミッドシティホテルの朝食はコロナ対策の為バイキングでなく、和食&洋食お弁当。洋食弁当を選択、部屋で食べる。


東北線:黒田原駅

7時半 ホテルをチェックアウトし那須塩原駅へ。
東北線7:44分発電車に乗り~7:49分黒磯着 乗換7:54発~8:03分 黒田原駅着。通学の高校生多数一緒に下車。駅前に停車中の8:10分芦野市役所行きバスに乗車。運転手さんに10分位で遊行柳最寄りの芦野支所バス停に到着 下車する。


Ken & Mary's Second Life
おくのほそ道
『おくのほそ道』で芭蕉が詠んだ句は五十句、詠まれた場所を辿る旅
日光路
(東京~埼玉~栃木~福島)
(一) 日光路
2021年4月4日~9日
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家




4月8日 5日目
遊行柳~白河の関跡
おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道





おくのほそ道
草の戸も住替る代ぞひなの家 一六八九年(元禄2年4月20日)(新暦)6月7日 
又、清水ながるゝの柳は、蘆野の里にありて、田の畔に残る。此所の郡守戸部某の、「此柳みせばや」など、折をりにの給ひ聞え給ふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日此柳のかげにこそ立より侍つれ 。
田一枚 植て立去る 柳かな(たいちまい うえてたちさる やなぎかな)
2021年4月8日
日光路 草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
栃木県那須町芦野 田一枚 植(うゑ)てたち去る 柳かな
(意)西行は「しばしとてこそ立ちどまりつれ」とうたった、私は木陰で西行をしのび、田植えのさまを眺めているうち、すでに田一枚が植え終わるまでの時間を過ごし、柳のもとをようやく立ち去っていく。



芦野支所バス停。四方八方畑ばかり。こんなに全く何もない場所にぽつんと放り出された感じがすごく新鮮な感覚。ずっと向こうの畑の真ん中に大きな木が茂ってるのが見える「あれが遊行柳だ!」いっぱいの青空の下のどかな田園をそこに向かってゆっくり歩いていく。


遊行柳
(一) 日光路
2021年4月4日~9日
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
(一) 日光路
2021年4月4日~9日
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
(一) 日光路
2020年9月19日~
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
(一) 日光路
2021年8月~2022年8月
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家

『田一枚 植てたち去る 柳かな』

遊行柳で、芭蕉の心を捉えた西行が「道のべに清水流るる柳陰 しばしとてこそ立ちどまりつれ」と詠んだと伝えられる場所「清水流るる柳」を見たいという願いがかなった、と芭蕉は感動し詠んだ句が 『田一枚......柳かな』西行は「しばしとてこそ立ちどまりつれ」とうたったが、私はこの木陰で西行をしのび、田植えのさまを眺めているうち、すでに一枚を植え終わるまでの時間を過ごし、柳のもとをようやく立ち去っていく。(おくの細道に旅立ったのは西行の五百回忌に当たる年)


今日はこの旅行で最大の..歩行距離を覚悟して出発して来たが、抜けるような青空でこんなに気持ちいい場所でラッキー...と 思えたのはここまで。


遊行柳から白河の関跡へは約11.7㌔、先を目指して歩き始める。


現在はどこもかしこも車が騒々しく排気ガスも多く、江戸前期、芭蕉が歩いた頃と同じなのは空の青さと山の緑かなと思いながら歩く。


遊行柳から白河の関跡は栃木県境を越え福島県に入って約4時間かけ到着。

おくのほそ道
おくのほそ道  一六八九年(元禄二年)四月二一日 (新暦)6月8日
心許なき日かず重るまゝに、白川の関にかゝりて旅心定りぬ。「いかで都へ」と便求しも断也。中にも此関は三関の一にして、風騒(ふうそう)の人心をとヾむ。秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、青葉の梢(こずえ)猶あはれ也。卯の花の白妙(しろたえ)に、茨の花の咲そひて、雪にもこゆる心地ぞする。古人冠を正し衣装を改し事など、清輔の筆にもとヾめ置れしとぞ 。
   卯の花を かざしに関の 晴着かな  曾良 (うのはなをかざしにせきのはれぎかな)
白河の関は鼠ヶ関・勿来関とともに、奥州三関の一つに数えられた関所。
西行もここで「白河の関屋を月のもる影は人の心をとむるなりけり」と詠んでいる

白河神社

白河の関跡 白河神社境内に、源義経が兄頼朝の決起に呼応し、東国に馳せ参じようとした時、戦勝を祈願し桜に旗印を立てたとされる「旗立の桜」や、戦勝祈願で弓矢を射立てたとされる「矢立の松」の碑が残っている。芭蕉もここにたち寄った時に、義経と芭蕉の尊敬する西行は同じ時代を生きた人、きっと西行や義経に想いを馳せたことだろうと想像できる。

4月8日 5日目
遊行柳~白河の関跡

白河の関跡からのバスは一日1~2本しか走ってない、想定していた通り、最寄の白坂駅までは10㌔位あるが歩くしかない。



源義経と佐藤継信⇒
源義経家臣 由来の「庄司戻しの桜」今年も満開

白河の関跡を出てすぐ、白坂へ向かう途中に見事な桜。説明板を見るとなるほど ここも義経由来の話で、この見事な桜の木は、義経四天王の一人佐藤継の父基治.植栽の木(庄司戻しの桜)で芭蕉と曾良もおくの細道 道中立寄っている。
朝8時半芦野からから歩き始め白河の関跡へ12㌔歩いた後、そこからJR東北本線白坂駅まで10㌔きつい道のりだったが、午後2時半にやっと白坂駅 到着。

切符の代わりの
乗車証明書発行

白坂駅は無人駅、suicaは使えず駅構内で乗車証明書をとってホームへ。
白坂13:49~新白河13:53着 乗換13:57分発~14:24分福島県中通り 須賀川駅へ到着



4月9日 黒羽雲巌寺



4月9日 旅行最終日
今日は那須塩原に戻って黒羽雲巌寺を参拝し帰路につく予定。
6時半ラジオ体操してウィング・インターナショナル・ホテル一階レストランで朝食。アルコール消毒体温測定ビニール手袋着用と何処も同じコロナ対策。

福島県中通り.那賀川・松明通り
須賀川市 HP市の案内
ウルトラマンの生みの親“特撮の神様”と称される円谷英二監督は須賀川市出身です。須賀川市は2013年5月、ウルトラマンの故郷「M78星雲 光の国」と姉妹都市提携を結びました。
「すかがわ市 M78 光の町」は、須賀川市と「M78星雲 光の国」が姉妹都市を提携して誕生した仮想の都市です。町長には宇宙警備隊 大隊長 ウルトラの父が就任。仮想都市の住民登録や、町の名所紹介などを行なっています。須賀川中心・松明通り(たいまつどおり)にはウルトラヒーローや怪獣のモニュメントが立ち並んでいます。今にも動き出しそうな迫力ある姿は必見です。また、通りの街路灯にはウルトラヒーローや怪獣などのシルエットが描かれています。

ウィング・インターナショナル・ホテル8時半チェックアウト。ウルトラマン生みの親“特撮の神様”円谷英二監督出身地らしくウルトラマンモニュメントが並ぶ松明通りを須賀川駅へ歩く。
朝から青空いっぱい気持ちいい。今日は黒羽のお寺を訪ね帰路につく予定。


須賀川駅




おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道










雲巌寺行き大田原市コミュニティ バス

須賀川駅から那須塩原駅へ移動。駅東口から10:40発のコミュニティバスに乗り約一時間で雲巌寺に到着。途中の乗客は”0” バス停前から正面に参道が続いている。

2021年4月9日
日光路 草の戸も住替る代ぞひなの家
日光路 草の戸も住替る代ぞひなの家
黒羽・雲巌寺
おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道
草の戸も住替る代ぞひなの家 一六八九年(元禄二年)四月四日 (新暦)5月22日
黒羽の館代浄坊寺何がしの方におとずる。思ひがけぬあるじの悦び、日夜語りつづけて、その弟桃翠(とうすい)などいふが、朝夕勤めとぶらひ、自の家にも伴ひて、親属の方にもまねかれ、日をふるままに、日とひ郊外に逍遙して、犬追物の跡を一見し、那須篠原をわけて玉藻の前の古墳をとふ。それより八幡宮に詣ず。与一扇の的を射し時、「別しては我国氏神正八まん」とちかひしもこの神社にてはべると聞けば、感應(かんのう)殊(ことに)しきりに覚えらる。暮れば桃翠宅に帰る。修験光明寺といふあり。そこにまねかれて行者堂を拝す。
夏山に 足駄を拝む 首途哉 (なつやまに あしだをおがむ かどでかな)
おくのほそ道
草の戸も住替る代ぞひなの家 一六八九年(元禄二年四月五日)5月23日
当国雲巌寺のおくに佛頂和尚山居跡あり。竪横の五尺にたらぬ草の庵『むすぶもくやし雨なかりせば』と、松の炭して岩に書き付けはべりと、いつぞや聞こえたまふ。その跡みむと雲岸寺に杖をひけば、人々すすんでともにいざなひ、若き人おほく、道のほど打ちさはぎて、おぼえずかの梺にいたる。山はおくあるけしきにて、谷道 遙に、松杉黒く、苔しただりて、卯月の天今なお寒し。十景つくる所、橋をわたつて山門に入る。 さて、かの跡はいづくのほどにやと、後ろの山によぢのぼれば、石上の小庵岩窟にむすびかけたり。妙禅師の死関、法雲法師の石室を見るがごとし。
木啄も 庵はやぶらず 夏木立 (きつつきも いほはやぶらず なつこだち)
 と、とりあへぬ一句を柱に残(のこし)侍(はべり)し。
草の戸も住替る代ぞひなの家
(意)光明寺に安置された役の行者の下駄を拝み、これから向かう みちのくの長旅の無事を祈った。
草の戸も住替る代ぞひなの家
(意)雲巌寺で寺をつつきこわす鳥とされているきつつきも、この庵だけは破らなかった。今、夏木立に囲まれ昔のままの別天地のような感じのする場所と詠んだ。


(一) 日光路
2021年4月4日~9日
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
(一) 日光路
2021年4月4日~9日
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
(一) 日光路
2020年9月19日~
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
(一) 日光路
2021年8月~2022年8月
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家



4月9日 6日目
黒羽雲巌寺




雲巌寺・芭蕉『木啄も 庵はやぶらず 夏木立』句碑 

1689年芭蕉は雲巌寺を訪れた

境内にあった樹齢408年のスギ、2018年倒木の恐れあり伐採された。
芭蕉が来訪の頃すでにこの木はあった


雲巌寺から大田原市庁舎へ樹齢408年スギの一部を「年輪盤」として寄贈

臨済宗の雲巌寺の原宗明.師は2日、大田原市庁舎を訪れ、同寺で伐採された樹齢408年のスギの一部を「年輪盤」として寄贈した。1階エントランスに設置された。同寺前を流れる武茂川沿い「千丈の瀧」上部の崖に立っていた老大杉。根元の土砂が崩壊し倒木の危険があったため、昨年8月に伐採された。1610年の誕生から63年の徳川光圀(水戸黄門)の同寺参詣、89年の松尾芭蕉の同寺滞在などが記載され
.......2019年10月3日下野新聞記事より転載

雲巌寺バス停

大田原市コミュニティ バス



(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道
那須塩原駅~雲巌時 所要1時間 片道運賃200円のコミュニティバスは行きも帰りも乗客は自分ひとりだけ、採算度外視でいつまで続けられのだろう、少し心配。
雲巌寺12:30発のバスで那須塩原駅に戻り13:53分発電車に乗り宇都宮・古河などで乗換え帰る。 4月9日 歩行数 10403歩 7.3㌔
(一) 日光路 終
(一) 日光路終
HOME 海外紀行 日本紀行  札所紀行 温泉紀行 日曜名画座 RETIREMENT HIT-PRADE MAMI ARCHIVES PROFILE SITE-MAP
          

Ken & Mary's Second Life
おくのほそ道
『おくのほそ道』で芭蕉が詠んだ句は五十句、詠まれた場所を辿る旅
日光路
(福島県~宮城県~岩手県)
(一) 日光路
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家



JR東北本線・須賀川
駅 福島県中通り
おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道

おくのほそ道
草の戸も住替る代ぞひなの家 一六八九年(元禄二年)四月二二日~二八日)(新暦)6月9日~15日
とかくして越行まゝに*、あぶくま川を渡る。左に会津根高く、右に岩城・相馬・三春の庄、常陸・下野の地をさかひて山つらなる。かげ沼と云所を行に、今日は空曇て物影うつらず。すか川の駅に等窮といふものを尋て、四、五日とヾめらる。先「白河の関いかにこえつるや」と問。「長途のくるしみ、身心つかれ、且は風景に魂うばゝれ、懐旧に腸を断て、はかばかしう思ひめぐらさず。
風流の 初や奥の 田植うた (ふうりゅうの はじめやおくの たうえうた)
2021年4月8日
日光路 草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
福島県須賀川市 風流の 初(はじめ)や奥の 田植うた
(意)白河の関を超え奥州路に入ると、田植えの真っ盛り農民たちが田植え歌を歌っていた。ひなびた響きは、陸奥で味わう風流の第一歩となった
白坂駅で取りだした乗車証明書で須賀川駅で清算、今夜の宿ウィング・インターナショナル・ホテルへ向かう。駅からホテルへまでは20分程松明通り(たいまつとおり)を歩いていく。通りは広くきれいに整備された大通り。


森川許六
(蕉門十哲)
「奥の細道行脚之図」

『風流の 初(はじめ)や奥の 田植うた』の句碑

須賀川ウィング
インターナショナルホテル

ホテルに入る前、芭蕉ゆかりの寺・十念寺に寄る。
境内に芭蕉が須賀川で詠んだ『風流の 初や奥の 田植うた』の句碑


十念寺
ホテルにチェックイン。
荷物を置いて街に出る。須賀川で芭蕉もう一つの地「可伸庵跡」へ。

(一) 日光路
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家


可伸庵『世の人の 見付つけぬ花や 軒の栗』句碑
おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道

おくのほそ道
草の戸も住替る代ぞひなの家   一六八九年(元禄二年)四月二二日~二八日)(新暦)6月9日~15日
無下にこえんもさすがに」と語れば、脇・第三とつヾけて三巻となしぬ。 此宿の傍に、大きなる栗の木陰をたのみて、世をいとふ僧有。橡(とち)ひろふ太山(みやま)もかくやと閒に覚られて、ものに書付侍る。
其詞(そのことば)、栗といふ文字は西の木と書て、西方 浄土に便ありと*、行基菩薩の一生杖にも柱にも此木を用給ふとかや 。 
世の人の 見付けぬ花や 軒の栗 (よのひとの みつけぬはなや のきのくり)
2021年4月8日
日光路 草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
福島県須賀川市 世の人の 見付つけぬ花や 軒の栗
(意)栗の花は地味であまり世の人に注目されない、そんな栗の花さながら簡素な庵の軒で生活するご主人はおもむき深い。
可伸庵跡について
芭蕉と交友のあった俳人・相楽等躬(さがらとうきゅう)の屋敷の一隅に住んでいた僧・可伸の庵跡。芭蕉は「おくのほそ道」旅で等躬の屋敷に8日間滞在した。栗の木の下にある可伸の庵で等躬らと歌仙を巻いた。「世の人乃みつけぬ花や軒の栗」句碑は芭蕉が可伸のひっそりと暮らす様子に感じ入って詠んだ句である。
今夜もコロナ禍の中、飲食店は敬遠してコンビニで夕食を調達。カツカレー&サラダ&あんぱん 最後の夕食も部屋で。
4月8日 歩行数 39574歩 27.7㌔
『おくのほそ道』を辿る旅 日光路 2回目へ
(一) 日光路
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家


福島駅前広場.芭蕉&曾良像
おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道
おくのほそ道
おくのほそ道 一六八九年(元禄二年)四月二九日~五月一日.二日)(新暦)6月16日.6月17日.18日 等窮が宅を出て五里ばかり、桧皮(ひわだ)の宿を離れて安積山あり。路より近し。このあたり沼多し。かつみ刈るころもやや近うなれば、いづれの草を花かつみとはいふぞと人々に尋ねはべれども、更知人なし。沼を尋ね、人に問ひ「かつみかつみ」と尋ねありきて、日は山の端にかかりぬ。二本松より右にきれて、黒塚の岩屋一見し、福島に宿る。
あくれば、しのぶもぢ摺りの石を尋て、忍ぶのさとに行。遥山陰の小里に石なかば土に埋もれてあり。里の童べの来たりて教えける。「昔は此山の上に侍しを、往来(ゆきき)の人の麦草をあらして、この石を試(こころ)みはべるにくみて、此谷につき落せば、石の面下ざまにふしたり」と云。さもあるべき事にや。
早苗とる 手もとや昔 しのぶ摺 (さなえとる てもとやむかし しのぶずり)
2021年9月15日
日光路 (11)文知摺観音堂
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
福島市山口文知摺前 早苗とる 手もとや昔 しのぶ摺(ずり)
(意)五月女(田植えする五月頃のおとめ)たちが苗代から早苗をとる手つきを見ていると、昔、あのような手つきでしのぶ摺(茎や葉の色を布にすりつけ模様)を摺っていたかと しのばれる
「おくの細道」奥州路2回目は福島郊外の文知摺観音(もちずり観音)から。福島駅から往きはバスに乗って、帰りは歩いて福島駅に戻る予定。


文知摺石(もちずりいし)

福島駅から20分ほどバスにのり文知摺観音前で下車、迷いながら道を尋ね尋ねやっと見つけ境内へ。芭蕉も眺めた文知摺石は参道正面にどんと置かれていた。置かれていたというより、もともとそこにあった大きな石(岩)にいろいろな言い伝えが残されたものだ。


文知摺石(もぢずり)

文知摺観音.芭蕉像

平安時代以前に、石の文様を草の汁で写しとった草木染の布・衣「信夫摺」もしくは「しのぶ文知摺」を詠んだ句のゆかりの文知摺観音。 甘く切ない恋歌  芭蕉と河合曽良は1689(元禄2)年5月2日福島城下の宿で目を覚ました。この日、曽良の「日記」は「快晴。福嶋ヲ出ル」で始まり「あくれば、しのぶもぢ摺の石を尋て、忍ぶのさとに行」と、さらりと記されている。「しのぶもぢ摺の石」(文知摺石)は歌枕である。これを詠んだ最も有名な歌が、小倉百人一首に河原左大臣、源融の〈みちのくの忍ぶもぢずり誰ゆえにみだれそめにし我ならなくに〉だ。 『しのぶもぢ摺』の衣のかすれ乱れた模様のように、誰のせいで心が乱れたのか、私のせいではないのに、あなたのせい」という、甘く切ない恋の歌だ。さらに、源融と地元の長者の娘 虎女との悲恋が伝わっている。芭蕉の時代以前から、観光地として知られていた。この歌と悲恋の伝説が、芭蕉の心をつかんだのだ。芭蕉が訪れた当時、文知摺石は、半分地中に埋もれていた。地元の子どもの言葉を借り「石は山の上にあったが、人々が畑の麦を抜いて、文知摺の技法を試すので、住民が怒って谷へ落とした。それで、上の面が地面に埋もれた」と理由を説明している。  
芭蕉はそんなことがあってよいのかと落胆し気を取り直して「早苗とる手もとや昔しのぶ摺」と詠んだ。



おくのほそ道 まわり道...から参照
平安時代以前に、石の文様を草の汁で写しとった草木染の布・衣「信夫摺(ずり)」もしくは「しのぶ文知摺」を詠んだ句のゆかりの地が、山口地区の文知摺観音である。甘く切ない恋歌、芭蕉と曽良は1689(元禄2)年5月2日福島城下の宿で目を覚ました。この日、曽良の「日記」は「快晴。福嶋ヲ出ル」で始まり「あくれば、しのぶもぢ摺の石を尋て、忍ぶのさとに行」と、さらりと記されている。 「しのぶもぢ摺の石」は歌枕である。これを詠んだ最も有名な歌が、小倉百人一首に河原左大臣、源融〈みちのくの忍ぶもぢずり誰ゆえにみだれそめにし我ならなくに〉『しのぶもぢ摺』の衣のかすれ乱れた模様のように、誰のせいで心が乱れ始めたのか、私のせいではないのに(あなたのせいです)という、甘く切ない恋の歌である。「しのぶもぢ摺」が、千々に乱れた恋心、「しのぶ」が「密やかな恋」を思わせる強力な枕詞だ。 さらにこの地に、源融と地元の長者の娘虎女(とらじょ)との悲恋が伝わっている。芭蕉の時代以前から、文人や参詣者が訪れる観光地として知られていた。芭蕉もついでに立ち寄ったのかというと、そうでもない。「この歌と悲恋の伝説が、芭蕉の心をつかんだのだろう。悲恋も経験したのだし」と文知摺観音の住職は言う。そんな色っぽい話を振る一方で住職は「この歌枕と伝説の地を、芭蕉は自分の目で確かめに来たのに、がっかりして帰った」と現実をドライに語る。 芭蕉が訪れた当時、文知摺石は、半分地中に埋もれていた。「ほそ道」では、地元の子どもの言葉を借りて「石は山の上にあったが、人々が畑の麦を抜いて、文知摺の技法を試すので、住民が怒って谷へ落とした。それで、上の面が地面に埋もれた」と理由を説明している。芭蕉いわく「そんなことがあってよいものだろうか」芭蕉の激しい落胆が伝わってくる。それでも、芭蕉が気を取り直すように詠んだ句が
〈早苗とる手もとや昔しのぶ摺〉ここ信夫の地で忍ぶ摺が行われていたのは昔のこと、せめて早苗を取る早乙女の手元に往事の所作を偲ぶとしよう、の意。ロマンの消失にがくぜんとしつつ、現在の田植えに視点を移し、昔をしのぶ感慨を詠んだのだ。この転換、さすがである。 
(一) 日光路
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家


文知摺観音(もちずり観音)から福島駅までは約7㌔。帰りはゆっくり歩いて福島駅へ
福島駅から飯坂線に乗って飯坂温泉へ。
1971年新婚旅行ではこの電車に乗ったのはすっかり日の暮れた夜。割合混雑していた電車の最前列に立ち、ヘッドライトに照らされ真っ暗闇に浮かび上がって夜空に続く二本の線路、それからの二人の人生を暗示しているかのような情景は今でも昨日のことのようにまぶたに浮かぶ。


飯坂線(福島⇔飯坂温泉)

飯坂線車内”ゆ”中吊り
今日は飯坂線に乗って、飯坂温泉2つ手前の「 医王寺前駅」 で下車、芭蕉も参拝した医王寺へ寄っていく。


飯坂線「 医王寺前駅」は無人駅
医王寺前駅は無人駅で、ホームから下りて線路を渡ると道路に「おくの細道・芭蕉路」案内板が建つ。それに従って住宅街を進むと約15分で医王寺に到着した。
1685(元禄2年)芭蕉は「おくの細道」途中医王寺を訪れている。


瑠璃光山「医王寺」(弁慶の笈や太刀など保存)
この寺は、奥州藤原氏の一門で飯坂をおさめていた佐藤一族の菩提寺。そして城主.佐藤基治の息子二人の継信、忠信兄弟は義経の忠臣で義経四天王と呼ばれている。


医王寺・芭蕉句碑「笈も太刀も 五月にかざれ 帋幟」
(一) 日光路
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家




医王寺境内この先に 義経 佐藤兄弟像 
おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道

おくのほそ道
草の戸も住替る代ぞひなの家 (佐藤庄司旧跡) 一六八九年(元禄二年)五月二日(新暦)6月18日  
月の輪のわたしを越て、瀬の上と云宿に出づ。佐藤庄司が旧跡は、左の山際一里半計に有。飯塚の里鯖野(さばの)と聞きて尋ね尋ね行に、丸山といふに尋ねあたる。是庄司が旧館也。麓に大手の跡など、人の教ゆるにまかせて泪を落し、又かたはらの古寺に一家の石碑を残す。中にも二人の嫁がしるし、まず哀れなり。女なれどもかひがひしき名の世に聞えつる物かなと袂をぬらしぬ。堕涙の石碑も遠きにあらず。寺に入て茶を乞へば、ここに義経の太刀、弁慶が笈をとどめて什物(じゅうもつ)とす。
笈も太刀も 五月にかざれ 帋幟 (おいもたちも さつきにかざれ かみのぼり)
五月朔日(ついたち)のことなり。
2021年9月15日
日光路 (12)飯坂医王寺
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
福島県飯坂町平野寺前 笈(おひ)も太刀も 五月(さつき)にかざれ 帋幟(かみのぼり)
(意)節句も近い五月、寺宝の弁慶の笈と義経の太刀も武勇で聞こえた継信、忠信兄弟二人だから紙幟とともに飾るのが端午の節句にはぴったりでよいだろう。

医王寺は奥州藤原氏の一門で飯坂をおさめていた佐藤一族の菩提寺。
源平合戦において、城主.佐藤基治は、藤原秀衡の命を受け、息子二人、継信、忠信兄弟を源義経に付き従わせた。兄の継信は屋島の合戦で平家の放った矢を義経の身代わりとなって受け戦死、弟の忠信は、義経が頼朝から追われる身になり、僧兵に攻められた危機に機転を聞かせ自分が義経と名乗り僧兵と戦い、無事主従一行を脱出させたが、後に潜伏しているところを襲われ壮絶な死を遂げた。息子二人の死を知り嘆き悲しむ年老いた義母乙和御前の様子を見て、継信と忠信の妻二人、気丈に自身の悲しみをこらえて夫の甲冑を着装。若桜は長刀を、楓は弓矢をたずさえ、武将の姿になり乙和の前に現れ「継信・忠信ただいま凱旋しました」と言い、乙和元気づけた。1685(元禄2年)「奥の細道」の途中医王寺を訪れた芭蕉は、佐藤兄弟を偲び「笈も太刀も五月に飾れ紙のぼり」と詠んだ。その弁慶の笈はこの寺の宝物殿に安置されている。


医王寺境内にある、左・佐藤忠信 中央・源義経 右・佐藤継信 の像

飯坂線・小川橋

医王寺を出て左に「奥の細道標識」脇の 山道を下り田園風景の畑の道を通って飯坂線の線路つたいに飯坂温泉へ向かう。芭蕉の歩いた江戸時代には電車などあるはずもなく のどかな田舎道だったろうが、はるかかなたの山の稜線は昔も今も変わらない。当時を偲びながら青空と野山を見ながら歩く。


飯坂温泉駅前の芭蕉像
おくのほそ道
 おくのほそ道   一六八九年(元禄二年)五月二.三日(新暦)6月18.19日
 其夜飯塚にとまる。温泉(いでゆ)あれば湯に入りて宿をかるに、土坐に筵(むしろ)を敷て、あやしき貧家)なり。灯もなければ、ゐろりの火かげに寝所をまうけて臥す。夜に入て、雷鳴雨しきりに降て、臥る上よりもり、蚤・蚊にせゝられて眠らず 。持病さへおこりて、消入計になん。短夜の空もやうやう明れば、又旅立ぬ。なお、夜の余波(なごり)心すゝまず。馬かりて桑折の駅に出る。遥なる行末をかゝ えて、かかる病覚束なしといへど、羇旅(きりょ)辺土(へんど)の行脚、捨身無常の観念、道路にしなん、是天の命なりと、気力聊とり直し、路縦横に踏で伊達の大木戸をこす。

穴原温泉は奥飯坂温泉とも呼ばれ飯坂温泉駅からは僅か5分程でついて14時少し過ぎ早めのチェックイン。フロントは3階で部屋は6階。
着替えて早速お風呂。お風呂は一階。眺めもいいお風呂で早いチェックインだったので貸切風呂のように一人占め。


「月之瀬」宿のHP写真

ゆっくり休憩しながら大相撲などみて、18時から夕食は3階大広間で。
コロナ対策で幾つかに部屋を仕切りしてグループ毎に分けられている。


畳廊下の夕食会場
今日は東北線岩沼~名取~仙台へ移動する予定。
9:30チェックアウト送迎バスで飯坂温泉駅まで送ってもらう。

(一) 日光路
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家






おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道



飯坂温泉駅発10:00~10:23福島駅着でJR東北本線10:40に乗り~11:45岩沼駅着。
東北本線岩沼駅から900㍍1大通りを約10分歩き今日最初の目的地「二木の松史跡公園」へ。


JR東北本線・岩沼駅前の芭蕉像はマスクを付けさせられている

東北本線岩沼駅から900㍍10分「二木の松史跡公園」
奥の細道、道中で芭蕉は、桜の頃の江戸を立って3か月あまり、二木の松に出会った感動を「桜より 松は二木を 三月越」と詠んでいる。

(一) 日光路
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家



二木の松史跡公園 現在の武隈の松は8代目
おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道


おくのほそ道
草の戸も住替る代ぞひなの家 一六八九年(元禄二年)五月四日(新暦)6月20日
 武隈の松にこそ、 め覚る心地はすれ。根は土際より二木にわかれて、昔の姿うしなはずとしらる。まず能因法師思ひ出づ。往昔、むつのかみにて下りし人、この木を伐て、名取川の橋杭(はしぐい)にせられたることなどあればにや、「松はこのたび跡もなし」とは詠たり。代々、あるは伐、あるひは植継などせしと聞くに、今将(いまはた)、千歳のかたちととのほひて、めでたき松のけしきになん侍し 。「武隈の松みせ申せ遅桜」と挙白(きょはく)といふものゝ餞別したりければ、
桜より 松は二木を 三月越 (さくらより まつはふたきを みつきごし)
2021年9月16日
日光路 (14)岩沼武隈の松
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
宮城県岩沼市二木 桜より 松は二木(ふたき)を 三月越(みつきごし)
(意)桜の弥生に旅立ち、言伝え通り根元から二木に分かれた見事な武隈の松を三月越しに目の前にしている

「桜より 松は二木を 三月越」芭蕉句碑

-----岩沼市HPより抜粋-----
「武隈(たけくま)の松」は、10世紀前半に詠まれた藤原元善の歌に登場します。元善は陸奥守として多賀城に向かう際、「武隈の松」が枯れていたのを見つけて小松を植え継ぎました。後にもう一度赴任した時に、この「松」に再会できた感動を和歌に詠んでいます。 元善が植えた松を2代目とすると、この後「松」は野火で焼けたり、枯れたり、橋の建材にするために切られたりして何度か姿を消したため、その都度、当時の陸奥守が植え継ぎました。芭蕉が見た5代目については、誰が植えたか記録がありません。現在一本の樹の根元近くから二股に分かれる「一株二股」の松ですが、元々は二本であり、11世紀初め紫式部の『源氏物語』に「武隈の松」は登場します。光源氏が歌に詠んだ「松」は二本であったといわれています。


ここで芭蕉は「桜より 松は二木を 三月越」と詠んだ

Ken & Mary's Second Life
おくのほそ道
『おくのほそ道』で芭蕉が詠んだ句は五十句、詠まれた場所を辿る旅
日光路
(福島県~宮城県~岩手県)
(一) 日光路
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家





おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道

岩沼駅に戻り、岩沼12:20の電車で12:26名取駅着。今日2つ目の目的地、源氏物語の主人公 光源氏のモデルといわれる中将・藤原朝臣実方の墓をお参りする。

おくのほそ道
おくのほそ道 一六八九年(元禄二年)五月四日(新暦)6月20日
鐙摺(あぶみずり)白石の城を過、笠島の郡に入れば、藤中将実方(とうのちゅうじょうさねかた)の塚はいづくのほどならんと、人にとへば、「是より遥右に見ゆる山際の里を、みのわ・笠島と云、道祖神の社 、かた見の薄(すすき)今にあり」と教ゆ。このごろの五月雨に道いとあしく、身つかれ侍れば、よそながら眺やりて過るに、簑輪・笠島も五月雨の折にふれたりと、
笠島は いづこさ月の ぬかり道 (かさじまは いずこさつきの ぬかりみち)
  岩沼に宿る。
2021年9月16日
日光路 (13)白石~岩沼
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
宮城県名取市愛島塩手北野 笠島は いづこさ 月の ぬかり道
(意)実方中将の墓のある笠島はどのあたりだろう。五月雨ふりしきるぬかり道の中で方向もはっきりしない体も疲れていたので遠くから眺めるだけで立ち去った
芭蕉も奥の細道で近くまで来たが正確に見つけられず「笠島は いづこさ 月の ぬかり道」の句だけ残している。


芭蕉も難渋した名取の山村らしく畦道やら ぬか道を約1時間程歩く。道を尋ねるにも人の気配がないので5軒の農家に飛び込み2軒は留守、3軒の農家に入ってやっと辿りついた。


平安時代中期の公家・中将藤原朝臣実方は和歌に優れ、中古三十六歌仙の1人。また源氏物語の主人公・光源氏のモデルともいわれる。 藤原行成とのいざこざから、天皇より陸奥守に任ぜられ陸奥国へ下っていた。 ある日、笠島道祖神前を通る時に、神前であるため馬から降りるべきと村人から言われたがそのまま通りすぎ、神罰が下ったか落馬、亡くなった。 この非運な死を哀悼して、西行法師や松尾芭蕉、正岡子規などがこの地を訪れ、実方を偲んでいる。



中将・藤原朝臣実方の墓

2021年9月16日
日光路 (13)白石~岩沼
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
宮城県名取市愛島塩手北野 笠島は いづこさ 月の ぬかり道
(意)実方中将の墓のある笠島はどのあたりだろう。五月雨ふりしきるぬかり道の中で方向もはっきりしない体も疲れていたので遠くから眺めるだけで立ち去った



あれほど歌枕に執着している芭蕉がなぜ雨ぐらいで実方中将の墓(墓は名取市愛島塩手北野にある)を素通りなのか?疑問が残る---鐙摺、白石の城を過ぎて、笠島の宿に入る。藤中将実方の墓はどのあたりだろうと人に聞くと、「ここから遙か右に見える山際の里を、箕輪・笠島といい、藤中将がその前で下馬しなかったために落馬して命を落としたという道祖神の社や、西行が藤中将について「枯野のすすき形見にぞ見る」と詠んだ薄が今も残っているのです」と教えてくれた。このところの五月雨で道は大変通りにくく、体も疲れていたので遠くから眺めるだけで立ち去ったが、蓑輪、笠島という地名も五月雨に関係していて面白いと思い、一句詠んだ。

おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道


中将・藤原朝臣実方 ---日本伝承大鑑より抜粋-------
藤原実方は中古三十六歌仙の一人で、歌道に秀で美男子で、数多くの女性と浮き名を流したとされる(清少納言もその中の一人)後世において『源氏物語』のモデルの一人とされている。史実としては、藤原北家の左大臣師尹の孫にあたり、左近衛中将にまで昇進し、一条天皇に仕えている。
長徳元年(995年)、殿上にて歌のことで藤原行成と口論となった際、激情の余りに行成の冠を奪い投げ捨ててしまうという暴挙に出た。それを見咎めた一条天皇は「歌枕を見て参れ」と陸奥守に左遷したのである。本来であればしばらくの任期で都に戻れるはずが、実方はこの陸奥国で不慮の事故により生涯を終える。その死について『源平盛衰記』には次のような逸話が残されている。
長徳4年12月(999年)、実方は名取郡にある笠島の道祖神の前を、馬に乗ったまま通り過ぎようとした。土地の者が馬から下りて再拝して通られるよう諫めたところ、実方はその理由を尋ねた。土地の者によると、この笠島の道祖神は、都にある出雲路道祖神の娘であり、良いところへ嫁そうとしたが商人に嫁したために親神が勘当、この地に追われやって来た。そこで土地の者は篤く崇敬している。男女貴賤の差にかかわらず、祈願する者は“隠相=男根”を造って神前に捧げれば叶わないものはない。この返答に対し実方は「さては此の神下品の女神にや、我下馬に及ばず」と言い放って、馬に乗ったまま通り過ぎた。そこで神は怒り、馬もろとも蹴りつけ、実方は落馬し打ち所が悪く死んでしまった。実方中将の墓は伝承通り、笠島と呼ばれた地にある。そして実方を蹴殺したとされる笠島の道祖神も、佐倍乃神社という名で残っている。墓と神社の距離は直線で1km足らず。おそらく墓は実方中将落馬の現場のそば近くと考える。この実方の不慮の死には、もう1つの伝承が残されている。実方死去の知らせが都にもたらされた頃、御所では1羽の雀が、台盤に置かれた飯をついばんで平らげる出来事が続いていた。また藤原氏の大学であった勧学院では、実方自身が雀に変化したという夢を見た翌朝、林の中で死んだ雀が見つかった。人々は、都を懐かしんで死んでいった実方の魂が雀に変化して都までやって来たのだろうと噂しあい、“入内雀”を名付けて哀れんだという。

帰りは道もすっかり解ってスムースに名取駅に戻ってくる。14:09発の電車に間に合って仙台駅はあっという間で14:23仙台着。


Ken & Mary's Second Life
おくのほそ道
『おくのほそ道』で芭蕉が詠んだ句は五十句、詠まれた場所を辿る旅
日光路
(福島県~宮城県~岩手県)
(一) 日光路
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家




おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道






おくのほそ道
草の戸も住替る代ぞひなの家 一六八九年(元禄二年)五月四日~八日(新暦)6月20~24日 
 名取川を渡て仙台に入。あやめふく日也。旅宿をもとめて、四、五日逗留す。ここに画工加右衛門(がこうかえもん)と云ものあり。いささか心ある者と聞て、知る人になる。この者、年比(としごろ)さだかならぬ名どころを考え置きはべればとて、一日案内す。宮城野の萩茂りあひて、秋の気色思ひやらるゝ。玉田・よこ野、つゝじが岡はあせび咲ころ也。日影ももらぬ松の林に入て、ここを木の下と云とぞ。昔もかく 露ふかければこそ、「みさぶらひみかさ」とはよみたれ。薬師堂・天神の御社など拝て、其日はくれぬ。なお、松嶋・塩竃の所々、画に書て送る。かつ、紺の染緒つけたる草鞋二足餞(はなむけ)す。さればこそ、風流のしれもの、ここにいたりてその実を顕す
あやめ草 足に結ん 草鞋の緒 (あやめぐさ あしにむすばん わらじのお)
2021年9月16日
日光路 草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
宮城県仙台市     あやめぐさ 足にむすばん わらぢの緒
(意)染緒を紺にした草鞋を餞別にもらい紺の染緒をアヤメ草に詠み代え「自分は旅人なので、端午の節句のアヤメは草鞋の緒に結ぶことにしよう」私はお別れして旅の供をすることはできないが、菖蒲が邪気を払うと言われるように、2足の草鞋が芭蕉と曽良を災いから遠ざけ、旅路を安寧ならしめるようにとの意。
芭蕉は 仙台・亀岡八幡宮参詣の折、仙台城(青葉城)を訪れ 通常上級武士ですら 通行できない、大手門から入城し二の丸三の丸を訪れている(芭蕉隠密説)

2021年9月16日
名取駅への帰りは道もすっかり解ってスムースに名取駅に戻ってくる。14:09発の電車に間に合って仙台駅はあっという間で14:23仙台着。


アルモンテホテル仙台
西口近くのアルモンテホテル仙台へチェックイン、部屋に荷物を置いて、今日3つ目の目的地 仙台市薬師堂へ向かう。 仙台駅から地下鉄東西線で3つ目の薬師堂駅下車歩いて数分で「陸奥国分寺薬師堂 」


下鉄東西線・薬師堂駅
陸奥国分寺は、仙台市内に現存する中で最古の歴史を持つ寺。
1270年前の奈良時代、聖武天皇の詔により全国に建立された国分寺のうち最北に置かれた寺だった。薬師堂を中心とする現在の伽藍は、400年前の江戸時代初頭、仙台藩の祖 伊達政宗公によって再建されたもの。現在は信者さんの祈祷を行う「薬師堂」と、檀家さんの法事を行う「本坊」の2つに役割分担して活動している。


陸奥国分寺
芭蕉は,奥の細道の旅の途中,元禄2年(1689)5月5日から7日までの3日間仙台に滞在。この句は,その時芭蕉を案内した後わらじ二足などせんべつを贈った俳人・北野加之への感謝の気持ちを詠んだもの。


「陸奥国分寺薬師堂 」芭蕉句碑
2021年9月16日
日光路 草の戸も住替る代ぞひなの家

おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道







アルモンテホテル--ホテルHPより





おくのほそ道 まわり道...から参照
 雨の中を北上した芭蕉たちは、白石城下で1泊。翌日1689(元禄2)年5月4日(陽暦6月20日)、岩沼経由で仙台を目指した。飯坂―仙台間は90キロ余り。これを2日で歩くのだから、急ぎ足だったろう。 芭蕉は「おくのほそ道」で、藤原実方の墓があるという「笠島」を遠く眺め〈笠島はいづこさ月(つき)のぬかり道〉、岩沼では能因らが歌を詠んだ歌枕「武隈の松」を訪れ〈桜より松は二木(ふたき)を三月越(みつきごし)〉と詠んだ。急ぎながらも芭蕉はご満悦である。岩沼から先、名取川を渡り、芭蕉たちが仙台の城下に着いたのは4日の夕方。ちょうど、家の軒にショウブをふき、邪気を払う端午の節句の日だった。
 芭蕉たちは仙台に8日まで4泊したが、初めは宿探しに歩き回った。曽良の「日記」によると、まず国分町の旅籠大崎屋に投宿、当時仙台を中心に活動中の談林派の俳諧師、大淀三千風を人に尋ねるが消息不明。どうにも、あてにしていた人々がつかまらない。 そこへ三千風の高弟で木版彫刻業を営む画工、北野屋加右衛門。芭蕉たちは、彼を訪ね三千風が旅に出て不在と知るが、この出会いが芭蕉たちを、ある意味、救ったのだ。二人は大崎屋に泊まり翌6日は、好天の下、大手門内の亀岡八幡宮を参拝。7日は、加右衛門が「和歌に詠まれながら不明になっている名所を調べている」と言い、玉田、横野、榴ケ岡、木下などを訪れ、薬師堂、天神社なども巡った。 さらに、その夜これから行く松島などの絵地図を描き、(マムシなどを防ぐといわれる)染緒を紺にした草鞋2足まで添えて餞別にくれたのだ。そして〈あやめ草 足に結むすばん 草鞋の緒〉旅人なので、端午の節句のアヤメは草鞋の緒に結ぶことにしようと紺の染緒をアヤメ草に詠み代えたのだ。 そして芭蕉は「風流の道の痴(し)れ者は、この心遣いで、その本領を発揮したというべきだ」と、最大の賛辞を贈った。芭蕉が、ここまで人間を描いたのも珍しい。芭蕉と曽良、仙台での3日目、亀岡八幡宮をお参りし、城の大手門をくぐり二の丸、三の丸を通り訪れている。
「ほそ道」に従い、塩釜港から遊覧船で松島「雄島」へ向かう。諸国から訪れた僧侶らが修行した瑞巌寺ゆかりの霊場だ。曽良〈松島や鶴に身をかれほととぎす〉(ホトトギスよ、松島の絶景にふさわしい鶴の身を借り鳴いてくれ、の意)と芭蕉〈朝よさを誰まつしまぞ片心〉の両句碑が、仲むつまじく身を寄せる。〈朝よさを...〉は出立以前に詠んだ無季の句。こんなにも松島に心ひかれるのは誰かが待っているのか。自分の片思いか―。恋慕の情にも似た切なさに、胸が締め付けられた。にもかかわらず芭蕉は、待望の松島を漢詩文の引用や島々の擬人化をはじめ技巧を凝らした美文で紡ぎ出す一方、口をつぐんだ。「ほそ道」に採った句は、碑にあった曽良の〈松島や...〉。肝心の主人公は一句も詠めず、寝ようにも興奮のあまり眠れないという。ここに芭蕉の企みがありそうだ。「ほそ道」は創作だ。技巧的に黙ることでかえって対象の存在感を引き立てる。心憎い演出である

国分寺・薬師堂お参りして地下鉄で仙台へ、駅ビルで夕食の食材を買ってホテル戻る。アルモンテホテル仙台はビジネスホテルにしては大きなお風呂がありゆっくり入って疲れをとる。夕食は買ってきた神戸コロッケなどで部屋で済ませる。


9月17日 7時~アルモンテホテル1階レストランで朝食。ビジネスホテルとは思えないくらい料理が美味しく種類も豊富、器も綺麗で大満足。次もこのホテルチェーンを探して是非泊まりたいと思っている。

おくのほそ道
おくのほそ道 一六八九年(元禄二年五月八日)(新暦)月日
 かの画図にまかせてたどり行ば、おくの細道の山際に十符の菅有。今も年々十符の菅菰を調て国守に献ずと云り。壷碑市川村多賀城にあり。つぼの石ぶみは、高サ六尺余、横三尺計斗(ばかり)か。苔を(うがち)て文字かすかなり。四維(しゆい)国界(こっかい)の数里(すうり)をしるす。「この城、神亀元年、按察使(あぜち)鎮守府将軍大野朝臣東人の所置(おくところ)なり。天平宝字六年参議東海東山節度使(せつどし)同く将軍恵美朝臣修造、十二月朔日(ついたち)とあり。聖武皇帝の御時に当れり。むかしよりよみ置る歌枕、おほく語伝ふといへども、山崩川流て道あらたまり、石は埋て土にかくれ、木は老て若木にかはれば、時移り、代変じて、其跡たしかならぬ事のみを、ここに至りて疑なき千歳の記念、今眼前に古人の心を閲す。行脚の一徳、存命の悦び、羈旅(きりょ)の労をわすれて、泪も落つるばかりなり。
おくのほそ道
おくのほそ道  一六八九年(元禄二年)五月八日(新暦)6月24日
それより野田の玉川・沖の石を尋ぬ。末の松山は、寺を造て末松山といふ。松のあひあひ皆墓原(はかはら)にて、はねをかはし枝をつらぬる契の末も、終はかくのごときと、悲しさも増りて、塩がまの浦に入相のかねを聞く。五月雨の空いささかはれて、夕月夜かすかに、籬(まがき)が嶋もほど近し。あまの小舟こぎつれて、肴わかつ声々に、「綱手かなしも」とよみけむ心もしられて、いとど哀なり。その夜、目盲法師の琵琶をならして奥じょうるりといふものをかたる。平家にもあらず、舞にもあらず。
ひなびたる調子ち上げて、枕ちかうかしましけれど、さすがに辺土の遺風忘れざるものから、殊勝に覚らる。
おくのほそ道  一六八九年(元禄二年)五月九日(新暦)6月25日
 早朝、塩竈の明神に詣ず。国守再興せられて、宮柱ふとしく、彩椽(さいてん)きらびやかに、石の階(きざはし)九仞(きゅうじん)に重なり、朝日あけの玉がきをかゝやかす。かゝる道の果、(じんど)の境まで、神霊あらたにましますこそ、吾国の風俗なれと、いと貴けれ。神前に古き宝燈有り。かねの戸びらの面に、「文治三年和泉三郎奇進」とあり。五百年来の俤、今目の前にうかびて、そヾろに珍し。渠は勇義忠孝の士なり。佳名今に至りて、したはずといふ事なし。誠「人能道を勤め、義を守るべし。名もまた是にしたがふ」と云り。 日すでに午にちかし。船をかりて松島にわたる。其間二里余、雄島の磯*につく。舟をかりて松嶋にわたる。その間二里あまり、雄嶋の磯につく。
おくのほそ道
おくのほそ道  一六八九年(元禄二年)五月九日十日(新暦)6月25.26日 
そもそもことふりにたれど、松島は扶桑第一の好風にして、およそ洞庭・西湖を恥ず。東南より海を入れて、江の中三里、浙江の潮をたたふ。島々の数を尽して、欹(そばだつ)ものは天を指、ふすものは波に匍匐(はらばう)。あるは二重にかさなり、三重に畳みて、左にわかれ右につらなる。負るあり抱るあり、児孫愛すがごとし。松の緑こまやかに、枝葉汐風に吹きたはめて、屈曲をのづからためたるがごとし。そのけしき、よう然として美人の顔を粧ふ。ちはや振(ぶる)神のむかし、大山ずみのなせるわざにや。造化(ぞうか)の天工、いづれの人か筆をふるひ、詞を尽さむ。雄島が磯は地つヾきて海に出たる島也。雲居禅師の別室の跡、坐禅石など有。 はた、松の木陰に世をいとふ人も稀々見えはべりて、落穂・松笠など打けふりたる草の庵、閑(しずか)に住なし、いかなる人とはしられずながら、まずなつかしく立寄(たちよる)ほどに、月海にうつりて、昼のながめまたあらたむ。江上に帰りて宿を求れば、窓(まど)をひらき二階を作りて、風雲の中に旅寝するこそ、あやしきまで、妙なる心地はせらるれ。 
    松島や鶴に身をかれほとゝぎす  曾良 (まつしまや つるにみをかれ ほととぎす)
よは口をとぢて眠らんとしていねられず。旧庵をわかるる時、素堂松島の詩あり。原安適(はらあんてき)松がうらしまの和歌を贈らる。袋を解きて、こよひの友とす。かつ、杉風・濁子が発句あり。十一日、瑞岩寺に詣。当寺三十二世の昔、真壁の平四郎出家して入唐、帰朝の後開山す。其後に、雲居禅師の徳化*に依て、七堂甍改りて、金壁荘厳光を輝、 仏土成就の大伽藍とはなれりける。彼見仏聖の寺はいづくにやとしたはる。
おくのほそ道   一六八九年(元禄二年)五月十二日(新暦)6月28日 
十二日、平和泉と心ざし、あねはの松・緒だえの橋など聞き伝て、人跡稀に雉兎(ちと)蒭蕘(すうじょう)の往かふ道そこともわかず、終に路ふみたがえて、石巻といふ湊に出づ。「こがね花咲」とよみてたてまつりたる金花山、海上に見わたし、数百の廻船入江につどひ、人家地をあらそひて、竈(かまど)の煙立ちつづけたり。思ひがけずかかる所にも来たれるかなと、宿からんとすれど、さらに宿かす人なし。漸(ようよう)まどしき小家に一夜をあかして、明ればまたしらぬ道まよひ行く。袖のわたり・尾ぶちの牧・まのの萱はらなどよそめにみて、遥なる堤を行く。心細き長沼にそふて、戸伊摩(といま)といふ所に一宿して、平泉にいたる。その間廿余里(にじゅうより)ほどとおぼゆ。
9月17日~18日は鳴子温泉に2泊して、19日から平泉のYちゃん宅にお世話になる。
おくのほそ道
草の戸も住替る代ぞひなの家  一六八九年(元禄二年)五月十三日(新暦)6月29日 
三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有り。秀衡(ひでひら)が跡は田野(でんや)になりて、金鶏山のみ形を残す。まず、高館にのぼれば、北上川南部より流るる大河なり。衣川は、和泉が城(いずみがじょう)をめぐりて、高館の下にて大河に落ち入る。泰衡らが旧跡は、衣が関を隔てて、南部口をさし堅め、夷(えぞ)をふせぐとみえたり。さても義臣すぐつてこの城にこもり、功名一時の叢(くさむら)となる。国破れて山河(あり、城春にして草青みたりと、笠打敷(うちしき)て、時のうつるまで泪を落とし侍りぬ。
夏草や兵どもが夢の跡 (なつくさや つわものどもが ゆめのあと)
       卯の花に兼房みゆる白毛かな 曾良 (うのはなに かねふさみゆる しらがかな)
かねて耳驚(おどろか)したる二堂開帳す。経堂(きょうどう)は三将の像をのこし、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置)す。七宝(しっぽう)散(ちり)うせて、珠(たま)の扉風にやぶれ、金の柱霜雪(そうせつ)に朽て、すでに頽廃(たいはい)空虚の叢(くさむら)と成べきを、四面新に囲て、甍(いらか)を覆(おおい)て雨風をしのぐ。しばらく千歳(せんざい)の記念(かたみ)とはなれり。
  五月雨の降のこしてや光堂 (さみだれの ふりのこしてや ひかりどう)
2021年9月21日
日光路 (16)平泉中尊寺
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
岩手県西磐井郡平泉町高館 夏草や 兵(つはもの)どもが 夢の跡
(意)武士たちが栄誉を求め戦った場所は今、夏草が生い茂り、昔のことは夢のように消え去った
2021年9月21日
日光路 (17)平泉中尊寺
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
岩手県西磐井郡平泉町    五月雨(さみだれの) ふり残してや 光堂
(意)すべてを朽ちさせる五月雨もここには降らずに残したのか、光堂は今も光を放っている

(一) 日光路
2021年4月4日~9日
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
(一) 日光路
2021年4月4日~9日
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
(一) 日光路
2020年9月19日~
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
(一) 日光路
2021年8月~2022年8月
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家

おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道


9月21日、朝ごはんを皆で食べ、Yちゃんは出勤時間、玄関で「じじ ばば は今日、中尊寺を見学して夕方帰るので夕食支度して待ってるよ」言うと笑顔で出かけて行った。歩いても10分位だが新米先生は自転車通勤だ。
一ノ関駅まで歩き8:56発の電車に乗り中尊寺最寄り駅の平泉駅へ9:03着。
歩いて最初は芭蕉が「夏草や兵どもが夢の跡」を詠んだ高館・義経堂へ向かう。 


平泉駅から線路を渡って中尊寺通りを歩きはじめる。間もなく右にそれて義経終焉の地、高館(衣川館)・義経堂がある。芭蕉が「夏草や 兵どもが 夢の跡」を詠んだと思われ場所だ。


義経が始めて平泉を訪れてのは1174年、義経16歳の時で その頃の平泉は京都の文化にも引けを取らない平泉文化の成熟期を迎えていた。頼朝挙兵までの6年間義経は22歳までここ平泉で過ごした。平氏討伐後、義経の力を恐れた兄 源頼朝に追われるが、藤原氏三代 秀衡の庇護を受け、高館に居館を与えられた。ところが秀衡 病没のち、四代泰衡は頼朝からの圧力に耐えかね、1189年、父の遺言に背き衣川館を急襲して義経に付き従ってきた武蔵坊弁慶など忠臣が応戦するも、圧倒的な数の差に敗れ、義経は妻子と共にここで自害したと伝えられている。


高舘義経堂前からの眺め..芭蕉も同じ山川の景観を眺めただろう
2021年9月21日
日光路 (16)平泉中尊寺
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
岩手県西磐井郡平泉町高館 夏草や 兵(つはもの)どもが 夢の跡
(意)武士たちが栄誉を求め戦った場所は今、夏草が生い茂り、昔のことは夢のように消え去った
(一) 日光路
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家


芭蕉句碑
おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道

源義経終焉の地 高館(衣川館)・義経堂の「夏草や 兵どもが 夢の跡」芭蕉句碑

高舘義経供養塔

源義経主従終焉の地高舘義経堂を出て中尊寺駐車場入り口付近に、弁慶の墓と呼ばれるものがある。伝承によると、武蔵坊弁慶は攻め入る敵を前にして、持仏堂の前に立ちはだかって侵入を防いだとされる。敵は容赦なく矢を浴びせ掛けたが、弁慶は決して倒れることなく、堂を守るように立ったまま死んだ。有名な“弁慶の立ち往生”である。が、あくまで伝承で弁慶が実在したかどうか定かでない。 


弁慶の墓

弁慶の墓

金色堂までは中尊寺坂下から月見坂を登っていく。
 

月見坂
「七重の舎利の小塔」とは、「金色堂」のこと。
ここに、赤いぎょろ目の「大盗」が現れて、膝立ちになって宝塔を拝もうとし「銀のかたびら」を身にまとっているから、そこらの普通の泥棒ではなく、 よほどの大物であることがうかがわれる、大盗は、たんなる参拝客として訪れたはずはなく、拝んだ後に、宝物を頂戴するつもりだったが、 なぜか彼は宝塔に手を触れることができず、結局そのまま礼をして去っていった。民話にでも出てきそうだが宮沢賢治の創作。

2021年9月21日
日光路 (17)平泉中尊寺
草の戸も住替る代ぞひなの家 草の戸も住替る代ぞひなの家
岩手県西磐井郡平泉町    五月雨(さみだれの) ふり残してや 光堂
(意)すべてを朽ちさせる五月雨もここには降らずに残したのか、光堂は今も光を放っている
(一) 日光路
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家


中尊寺/金色堂 中尊寺HP画像
中尊寺・金色堂について....中尊寺HPより参照
金色堂は中尊寺創建当初の姿を今に伝える建造物で1124年(天治元年)、奥州藤原氏初代清衡公によって上棟されました。数ある中尊寺の堂塔の中でもとりわけ意匠が凝らされ、極楽浄土の有様を具体的に表現しようとした清衡公の切実な願いによって、往時の工芸技術が集約された御堂です。
内外に金箔の押された「皆金色」と称される金色堂の内陣部分は、はるか南洋の海からシルクロードを渡ってもたらされた夜光貝を用いた螺鈿細工。そして象牙や宝石によって飾られています。須弥壇の中心の阿弥陀如来は両脇に観音勢至菩薩、六体の地蔵菩薩、持国天、増長天を従えておられ、他に例のない仏像構成となっております。 この中尊寺を造営された初代清衡公をはじめとして、毛越寺を造営した二代基衡公、源義経を奥州に招きいれた三代秀衡公、そして四代泰衡公の亡骸は金色の棺に納められ、孔雀のあしらわれた須弥壇のなかに今も安置されております。
仏教美術の円熟期とも称される平安時代末期、東北地方の二度にわたる大きな戦いで家族をなくし、後にその東北地方を治めた清衡公が、戦いで亡くなってしまった全ての人々、そして故なくして死んでしまったすべての生き物の御魂を極楽浄土に導き、この地方に平和をもたらすべく建立した中尊寺の堂塔が古の栄華を今に伝えます。

(一) 日光路
2021年4月4日~9日
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
(一) 日光路
2021年4月4日~9日
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
(一) 日光路
2020年9月19日~
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
(一) 日光路
2021年8月~2022年8月
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家
草の戸も住替る代ぞひなの家

中尊寺・金色堂
最後に能楽殿を見学。
能舞台は嘉永六年(1853)伊達藩によって再建されたもので、毎年5月4日.5日に「古実舞」「御神事能」が中尊寺の僧侶によって勤められる。


能楽殿・能舞台
レストハウス横の中尊寺バス停から一ノ関駅行き11:58分に乗りYちゃん家近くの竹山バス停で下車、途中のフードパワー・スーパーで今夜の総菜を買って帰る

おくのほそ道
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
(一) 日光路
おくのほそ道

中尊寺に行っている間にK君は明日から仕事なので先に帰っていた。新幹線の中からLineで鳴子~一ノ関の写真をアルバムにして送ってくれた。18時Yちゃん仕事から帰り一緒に夕食。
おくのほそ道    日光路終


HOME 海外紀行 日本紀行  札所紀行 温泉紀行 RETIREMENT HIT-PRADE MAMI ARCHIVES PROFILE SITE-MAP



Home Ken & Mary's Second Life
NO-SIDE  It aims at a happy retirement E-mail: no-side@no-side.us
Copyright c1998-2007 Ken & Mary. All rights reserved.