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福島・会津若松

2020年8月23日~25日
2020年8月23日(日)
新宿駅
中央線/甲府駅
お城/武田神社
身延線/鰍沢口
お墓参り
身延線/下部温泉





8月24日(月)
8月25日(火)
入国検疫PCR
検査陰性入国
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5 6 7 8





「兎追ひし かの山 こぶな釣りし かの川」  昔 懐かしい富士川橋を歩いて渡る



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フランスから帰国中の娘と孫を連れて久しぶりに故郷 お墓参り。


コロナウイルスで自粛ムードの中 新宿駅へ。
新宿駅ホームには、リュックを背負い山登りに出かける人が思った以上に多いのに少し驚く。


あずさ1号

新宿発7:00 あずさ1号。 次の八王子駅でも山登りスタイルの人多数乗車。それでも空席の目立つ車内。甲府駅へ8:27分に到着。


甲府駅

娘の趣味『日本100名城』スタンプラリーにお付き合いして、甲府駅近くの甲府城(舞鶴城)へ。

甲府城について
甲府城は武田氏の滅亡後、豊臣秀吉配下の大名によって築かれ、慶長5(1600)年ごろに完成したと言われています。
現在は本丸を中心とした一部が残っているだけですが、かつての甲府城の内城(内堀内側)は、平和通りやJRの線路の北側にまで達し、20ha(東京ドーム約4個分)ほどの広さがありました。また、城の一番外側の堀「三の堀」は今の地図に置き換えると、北は武田1丁目、南は若松町、東は金手駅、西は相川まであったようです。
明治6年の廃城令によって、甲府城は内城のみ残してほかは市街地化されることになり、甲府駅や県庁が建てられました。明治37年からは舞鶴城公園として市民に開放されています。

「温泉楽屋曲輪の御門前、水道に湧出つ。御城内なれば何病に應ずると云事は分明ならざれ共、眼病に効有といふ」(『裏見寒話』より)
古い文献によると甲府城には温泉が湧いていたようです(現在の県庁の庭あたり)
冷泉で脚気・眼病に効果があったと言われています。城内に温泉が湧いていたのは全国的にもとても珍しいそうです。
甲府市HPより抜粋 ⇒




甲府城(舞鶴城)

稲荷やぐらで『日本100名城』スタンプをいただく。

武田氏滅亡後の甲府城
  江戸時代から近代 ​
1603年(慶長8年) 徳川義直(家康の九男)が城主となる。
1607年(慶長12年) 義直が清洲へ転封。甲府城番が敷かれる。
1616年(元和2年) 徳川忠長(秀忠の二男、駿府城主)の支城となる。
1632年(寛永9年) 忠長死去。城番制がしかれる。
1661年(寛文元年) 徳川綱重(家光の三男)が城主となる。
1678年(延宝6年) 徳川綱豊(綱重嫡男)が城主となる。
1704年(宝永元年) 綱豊が将軍世嗣として江戸城に入り、徳川家宣と改名。
1705年(宝永2年) 柳沢吉保が城主となる。初めて親藩以外の領地となる。
1724年(享保9年) 柳沢吉里(吉保嫡男)が大和郡山へ転封。甲斐一国が幕府領となる。
1727年(享保12年) 甲府城大火。
1734年(享保19年) 城内に盗賊が侵入し1400両の公金が盗難される甲府城御金蔵事件が発生する。犯人は不明で、当日に博打をしていた甲府勤番士の怠慢が指摘され17名が処罰される。1742年(寛保2年)には 高畑村の百姓次郎兵衛が捕縛され、事件は解決した。この事件は人々の間で関心を呼び、作者成立年代は不明で出版もなされていないが、フィクションを交えた勧善懲悪の物語として構成された実録小説『甲金録』となった。
1866年(慶応2年) 勤番制を廃止し、城代を設置。
1868年(明治元年) 明治維新。板垣退助らが無血入城。
1873年(明治6年) 廃城。
甲府城天守台から南・西方向へのパノラマ写真。謝恩塔越しに甲府盆地・南アルプスを望む-----Wikipediaより

甲府舞鶴公園謝恩塔

甲府市では『日本100名城』の うち、甲府城と武田神社の2ヵ所が含まれている。
お城から線路を挟んで向かいの甲州夢小路を散策。

甲州夢小路

そのあと甲府駅北口からタクシーに乗って、2キロほど北にある武田三代(信虎・信玄・勝頼)ゆかりの武田神社(つつじが崎館)を参拝に向かう。運転手さんは山梨弁丸出し愉快なおじさんで観光案内しながら神社に到着。
下車する際「ここで、おらあ勝手に待ってるじゃん。ほいだから よけりゃ~帰りも乗ってってくりょうし」


武田神社

日曜日なので参拝客多数。


武田神社HPより抜粋
武田神社は武田信玄公を御祭神としてお祀り申し上げております。
信玄公はあらためて申すまでもなく、我が国戦国時代きっての名将であります。大永元年(1521年)当神社の背後に控える石水寺要害城に誕生され、天正元年4月12日に上洛の夢半ばに信州駒場で53歳の生涯を終えますが、21歳の時に国主となって以来30年余、諸戦に連戦連勝を重ねるのみならず、 領国の経営に心血を注ぐ中、特に治水工事、農業・商業の隆興に力を入れ、領民にも深く愛されました。而して、現在でも県民こぞって「信玄さん、信玄さん」と呼びならわし敬慕の情を表し、郷土の英雄として誇りともする所以であります。
武田神社は信玄公の父君信虎公が永正16年(1519年)に石和より移した躑躅ヶ崎(つつじがさき)館跡に鎮座致しております。この館には信虎・信玄・勝頼の三代が60年余りにわたって居住し、昭和13年には国の史跡として指定されました。
館跡には当時からの堀、石垣、古井戸等が残り、信玄公を始め一族の遺香を現在まで伝えると共に、神社創建の折、県内各所より寄進を受けた数百種類の樹木が四季折々の風景を見せます。また、境内にある「三葉の松」は全国でも珍しく、黄金色(こがねいろ)になって落葉することから、身につけると「金運」のご利益があるといわれております。


武田神社「神橋」

参道の「神橋」を渡って進むと大鳥居。その脇に太宰治の愛でた桜と書かれた看板。

看板に書かれている文.......

        
『春昼』  太宰治
4月11日
------前略 けさは上天気ゆえ、家内と妹を連れて、武田神社へ、桜を見に行く。 母をも誘ったのであるが、母は、おなかの工合い悪く留守。武田神社は、武田信玄を祭ってあって、毎年、四月十二日に大祭があり、そのころには、ちょうど境内の桜が満開なのである。四月十二日は、信玄が生れた日だとか、死んだ日だとか、家内も妹も仔細らしく説明して呉れるのだが、私には、それが怪しく思われる。サクラの満開の日と、生れた日と、こんなにピッタリ合うなんて、なんだか、怪しい。話がうますぎると思う。神主さんの、からくりではないかとさえ、疑いたくなるのである。桜はこぼれるように咲いていた。
「散らず、散らずみ。」 
「いや、散りず、散りずみ。」
「ちがいます。散りみ、散り、みず。」
 みんな笑った。
お祭りのまえの日、というものは、清潔で若々しく、しんと緊張していていいものだ。境内は、塵一つとどめず掃き清められていた。
------後略


太宰治は昭和14年6月発行の『月刊文章』に随筆『春昼』(しんちゅう)を発表、その中で武田神社を訪れた様子が描かれている
太宰治は昭和14年1月甲府市御崎町
石原美知子と結婚
1月~8月甲府在住

昭和20年3月~7月妻実家甲府に疎開

甲陽武能殿



武田神社(つつじが崎館)でも『日本100名城』スタンプを。


 榎天神社、菅原道真をお祀りしていて、榎の大木は武田神社の御神木。

お参り し終えて参道を戻ると、さっきの山梨弁丸出しのタクシー運転手のおじさんが本当にまだ待っていた。その車に乗って甲府駅に戻る。


身延線ホームに降りると、10:59発の身延線・富士行電車が入っていた。


身延線・鰍沢口駅に11:48分着。昔は駅員さんも何人もいてにぎやかな駅舎で、駅前にはバスやタクシーが止まっていたものだが、今は人ひとりいない閑散とした駅前。


富士川橋

町のお寺までタクシーを呼ぶ予定だったが、今日は気温もいつもより低く風もあり爽やかなので2キロほどあるお寺まで歩くことにする。
30分程歩いて、
Mの菩提寺の善妙寺に到着、お願いしていた卒塔婆をいただきお参りする。ここの住職さんの奥さんはスポーツ万能女子でKの1級上、学校中のマドンナ憧れの先輩だった。


M-菩提寺・善妙寺

お寺の入口に弘安五年九月、日蓮聖人御宿泊看板が掲げれらていた。何度も来ているのに今日初めて気づいた。  調べると、この年は日蓮上人が病気治療のため身延山を下山し、常陸の湯で持病をいやす為 出た旅の途中 現在の池上本門寺で養体が悪化し亡くなっている。ということは身延からの途中この寺で一泊したことになるのだが、真偽のほどはわからない。いつか折があったら確かめよう。


お墓参りを終え 帰りも また身延線・鰍沢口まで2㌔あまりの道を富士川橋を渡りもどる。


途中の駅近く、この辺りでは評判の食堂「食彩・しん坊」に寄ってお昼にする。




食彩・しん坊

人気メニューの「ヒレカツ定食」1400円

テレビでも取り上げられるほどの人気店で、入ると密を防いでコロナ対策もきっちり、席と席を広く開けて安心して食事ができた。 胡麻をすった小鉢にからしとソースを混ぜてちょっと変わった形で食べる。


駅に戻って身延線・鰍沢口発14:10の電車で下部温泉駅には14:35到着。


下部ホテルは下部温泉駅から目の前。チェックイン。
体温を計られると思って尋ねるとすでに、玄関上に取り付けられたサーマルカメラにより体温検知されたと説明される、へ~と思った。そのあと代表者が身分証明書を提示し、コロナ対策で宿泊者全員が誓約書みたいな書類に記入署名させられた。


いくつかの質問事項に記入署名


601号室へ。着替えて早速お風呂へ。今日は孫のタダオ君を連れてお風呂へ伴い、日本のお風呂マナーをしっかり伝授する。


料理を取りに行く
時は手袋はめて


1日目の夕食は17:30~から2Fのバイキングレストラン「山のかまど」で。
甲斐の銘酒 春鶯囀(しゅんのうてん)美味しい。

夜「信玄太鼓」や餅つきなど1階ロビーである。


2020年8月24日(月)
身延線/下部温泉
切石・お墓参り
下部ホテル


8月23日(日)
8月24日(月)
8月25日(火)

お風呂は早朝5時から入れる。早く寝たので目が覚め早速朝ごはん前にお風呂に入る。



8時~2Fレストランで朝食。9時~お墓参りへ。



出かける前、高速バス停までホテル送迎バスがあることを知り電話でもう一つ先の高速バス停まで送ってくれないか申し出てみるといいですよと気持ちよく引き受けてくれた。
ホテルの好意で8㌔先のお寺まで送ってもらうことになる。



K 菩提寺お墓参り。

ホテルの送迎バスが帰りも乗せてくれることになり、お墓参りが終わるまでお寺の門前で待ってくれた。運転免許を返納してしまって、今までは車で来たお墓参りだが、バスも電車もほとんど通らない不便な場所で宿の好意で往復乗せてもらいとてもありがたかった。


11時頃ホテルに戻り今日一日はゆっくり温泉三昧。


ホテルロビーにある裕次郎来館時の記念品陳列コーナー

昭和36年、石原裕次郎が右足首を骨折した際、温泉治療を受けるためまき子夫人と別館に53日間長期滞在、その別館は石原裕次郎本人によって裕林亭と名付けられ、当時の様子「裕次郎写真館」が設けられている。




フランス対日本卓球戦は高齢の日本組の惨敗

この後タダオ君達はホテルの庭にある釣り堀『コボリヤ』に行き、3匹釣れたらしい。釣った魚は夕食時に炭火焼にしてくれるそうだ。


お風呂に入って夕食は17:30から。今夜は里のいろり懐石料理


2日目の夕食は「里のいろり」


山梨の銘酒 七賢 純米酒、純米吟醸、純米大吟醸 飲み比べ

釣り堀で釣った魚も加わって俵にささった串焼きが賑やか。


タダオ君には懐石料理よりバイキングの方がよかったみたいだった。

2020年8月25日(火)
身延線/下部温泉
中央線/甲府駅
新宿駅


8月23日(日)
8月24日(月)
8月25日(火)


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ヘルシーな朝食。鮭・焼きサバ・梅と3種のお茶漬けあり鮭茶漬けと昨夜の餅つきでついたお雑煮も食べる。焼きたてオムレツもとても美味しかった。


電車は10:45分。ゆっくり時間がありもう一度帰る前入浴してくる。


10時チェックアウト。


受付の壁に、新渡戸稲造氏が昭和初期に宿泊の折の書が飾られている。


下部ホテル玄関わきの高浜虚子句碑

二日間、命の選択をして帰路につく。10:45下部温泉駅~11:55甲府駅で乗換新宿へ14:44着。

8月23日(日)
8月24日(月)
8月25日(火)
海を見ていた午後
終
2020年8月2日 フランスから成田空港の入国手続き (新型コロナウイルス感染予防対策)
(1)入国検疫PCR検査陰性入国 1 2 3 4 5 6 7 8
入国検疫PCR検査陰性入国 1 2 3 4 5 6 7 8
(2)「入国される方へ検疫所よりお知らせ」の必要欄に8月2日~4日はホテル滞在、8月5日~28日は自宅に滞在を記入↓
  
入国検疫PCR検査陰性入国 1 2 3 4 5 6 7 8
(3)検疫官によるPCR検査。数時間待って「陰性」の結果!無事入国          帰国時提示する検査済み保証書              
入国検疫PCR検査陰性入国 1 2 3 4 5 6 7 8
(4)PCR検査「陰性」のあと「要請書」にサイン     
入国検疫PCR検査陰性入国 1 2 3 4 5 6 7 8
(5)Lineアプリをダウンロード、健康状態確認を滞在中求められる
入国検疫PCR検査陰性入国 1 2 3 4 5 6 7 8
(6)帰国後14日間は毎日Lineによる健康状態の報告をする
入国検疫PCR検査陰性入国 1 2 3 4 5 6 7 8
(7)滞在中、保健所から14日間の外出自粛と健康状態の確認の電話がる
PCR検査陰性 フランス帰国 1 2 3 4 5 6 7 8
(8)8月28日、コロナウィルス感染もなく、26日間の日本滞在を終え、成田空港からアムステルダム(乗継)~パリ(乗継)2度乗継ぎして マルセイユへ帰る 
終
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