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 北欧旅行(2012年9月26日~10月16日) エストニアロシアフィンランドスウェーデンノルウェーデンマーク
Estonia/Tallinn Russian.StPetersburg(A) Russian.StPetersburg(B) Finland/Helsinki Helsinki~Stockholm Sweden.Stockholm(A)
Sweden.Stockholm(B) Norway/Oslo
Hurtigruten.Bodo
Hurtigruten.Kirkenes
Copenhagen(A)
Copenhagen(B)
 ロシア・サンクトペテルブルク  9月29日~10月2日
9月29日(土)
エストニアタリン
サンクトぺテルブルク
Hotel
SokosVasilievsky


K&MSecond Life

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1 エストニア/タリン
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8 ノルウェー/オスロ
9 沿岸急行船1Bodo
10 沿岸急行船2Kirkenes
11 コペンハーゲン(A)
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エルミタージュ美術館
4日目 エストニア/タリンから ロシア/サンクトペテルブルクへ陸路 移動。
ロシア入国ビザ

午前4:30起床 ラジオ体操をした後荷造り、サンクトペテルブルク行きバスは8時発なので7時ホテルでレストランのオープン時間に入り急いで朝食そしてチェックアウト。
歩いてバスターミナルへ。昨日すでにチェック済みの8番乗場でバスの到着を待つ。タリン国際バスターミナルとは名ばかりで、あか抜けない雰囲気で切符売り場もプレハブ小屋に窓口を取り付けただけの粗末さ、整備もあまりされておらず、雑然とした広場、発着場前は粗末なベンチが並びバスを待つ乗客は身なりも街中で見た人々と違い粗末な感じ。ソ連に併合されていた国のせいか人々の表情は皆暗くき鋭い目つきで、慣れない雰囲気に余計緊張する。



エストニア・タリンからロシア・サンクトぺテルブルク へユーロラインバスで移動する

サンクトペテルブルク行きのバスはなかなか来ない。やっと発車時間5分前に入ってきたバスはユーロラインらしく最新型のスマートな車体で貧相しいバスターミナルがそこだけ陽が当たっているように見える。乗車口の反対側で係員が荷物を整理し積み込む。その係りも無表情で愛想もなく事務的に乗客のチケットをチェックして荷物にタグを付け半券を渡す。荷物を預けて乗車口へ、運転手に予約票とパスポートを提示して乗車する。早めに予約していたので席は前から2列目で、途中交替する運転手が最前列なので乗客の中では一番前の席だった。


ロシア国境付近の寒村

一番きがかりな出入国カードを記入するタイミングは何時なのか、判らないまま全員が乗車したのを確認して早々にバスは発車した。国境までの車窓から見える景色は旧ソ連らしい殺伐とした貧しい家の多い村ばかり、経済発展が続くロシアだがまだ末端までは行届かないのか政治も弱者に配慮はないのか、複雑な気持ちで眺めながらバスはサンクトペテルブルクに向かって走る。


ロシア出入国カード

やがてロシア国境に差し掛かかったようだ。窓の外に異様な行列が目に入る。出入国手続きの人の行列だろうか、粗末な服装で荷物を抱えた人々の行列は昔見た映画の一場面のような暗く不気味な光景。不安がよぎる。こんな気持ちになったのは海外旅行をしていて初めてだ。バスは停車したまましばらく待たされてやっと前のバスの乗客の入国手続きが終わったようで、そのバスが去った後にこちらのバスが停車すると、エストニアの係官がバスに入ってパスポートチェック。特に問題なし。
さらにバスは進んでそこが本当の国境なのだろうか、ロシアの入国管理らしき事務所前でバスは停車。乗客全員降りて事務所内へ。一緒に後について事務所内で列につく。
ひとりづつ窓口でなにやらチェックを受けて、それが済むと先に進みロシア国内に入って行く。
やっと順番が来てパスポートを見せると入国審査担当官がロシア語で小さな紙片とボールペンを放り出し記入しろと指示される、出発前いつのタイミングで渡されるのか不安のあった”出入国カード”が今ここで突然渡された。 
それも自分達だけ! 書くしかない、列を離れ近くのテーブルで必死に記入を始めると他の乗客が壁の張り紙を指差し「こんな風に書くんだよ」というような事をロシア語で話しかけてくれたり、バスの運転手も心配して横について記入の様子を覗き込んでいる。出入国カードの記載については出発前何度も点検していたが、いざ実物を前にすると文字も小さく老眼の目を精一杯見開いて調節しながら一字一句間違えないように二人で記入する。
やっと書き終えるとバスの運転手が列の一番前に誘導して書類を窓口に提示する。やっとパスポートに入国許可印がガチャンと押されるとほっとため! バスにはすでに全員乗っていて待たしてしまったらしかった。 

こんなに緊張した入国手続きも初めてだったが、それ程緊張するほどの事でもなく、当たり前の事をしていればよかったのだが、ロシアに対して必要以上の警戒感や印象が、余計な神経を使わせていたように思う。この時の経験はいい思い出になることだろう。

Tallinn
StPetersburg
StPetersburg2
Helsinki
Stockholm
Stockholm(2)
Oslo
Hurtigruten
Copenhagen
Copenhagen2

サンクトペテルブルク Hotel SokosVasilievsky 前

道路がサンクトペテルブルク近くになってくると車も増えて道路も一車線になり、スピードの出し方も尋常でなく、バスも相当スピードを出して走っているにもかかわらず後から後から追い越していく。向こうから車が迫って来ても僅かな車間があると追越して、対向車の方がブレーキをかけ追越し車両に譲っている。まるで曲芸のような乱暴な車ばかり。案の定追越し車両が追越しきれずに対向車とぶつかっている現場に遭遇した。警察が来るわけでもなく救急車がいるのでもなく、当方のバスの運転手は当たり前の光景のように無表情に横を抜けて走っていった。
サンクトペテるブルク市内に入って間もなくバスも終着地に着いた。
地図では事前に見ていた場所だがバスを降りると右も左もわからないという感じで、はてどうホテルまで行くか思案する。
計画ではホテルまで3~4㎞なのでゆっくり街を見ながら1時間くらいかけて歩くつもりだったが、道の状態もあちこち工事していたり、舗装も荒れているようだし、段差も多そうだし歩くのは無理と判断して近くの地下鉄駅前に行く。
タクシー乗場もあるが誰も乗ろうとしていない、しばらく考えて、目の前に停車中のタクシーの窓をこんこんと叩くと、運転者が降りてきたので地図を見せるとわかったようなジェスチャーをして自分の車の前に止まっている車の運転手に声を掛けるとその人が寄ってきて、手書きのメモを提示し、800P(ルーブル)と20EUR(ユーロ)と2つの数字が書いてある。 計算するとだいたい2000円位か。ポンコツ車にはメーターがあるわけでもなくいわば白タクだ。何で最初の屋根にタクシーのサインを掲げた車の運転手が別の車のこの運転手に話を持っていったのだろう?疑問はあったがもうこの人にかけよう、20ユーロOK!とポンコツ車の運転手にメモの数字を指して返事すると、運転手はニコニコしながらこちらの荷物を車のトランクに入れてドアを開けどうぞの仕草、だいじょうぶかなと?もう乗るしかない。
しかしポンコツ快速車はすいすいとサンクトペテルブルクの歴史的な建物を車窓に映しながら10分くらいでホテル近くらしい場所に到着して停車し、地図を確認している、とMが20~30㍍先にあるホテルサインを発見、運ちゃんも笑顔で地図を返して車をホテル前まで進める。ちょった心配なタクシーだったが無事到着した。
車から荷物を歩道に降ろしてもらい20ユーロ札を渡し「サンキュー」と言うとその英語はわかるらしく手を上げ微笑んで去っていった。初めて接したロシア人はいい人でよかった。


パリの古写真

ホテルは照明も暗く陰気な感じを受けたがチェックイン。
ロシアだけは入国ビザと一緒に業者に予約をしてもらったので、グレードが不明。フロントの女性にバスタブをリクエストすると、簡単にオッケーしてくれる。ロシア人はタクシーの運転手といい、フロントの女性といいとても親切で目つき顔つきは皆厳しい感じだが心は同じ人間同士だなと思う。
サンクトペテルブルクは3泊するので寒い時期にシャワーの部屋では憂鬱だったのでありがたかった。
部屋は3階のツインルームでベッド脇には大きな楽に入ったパリのシャンゼリゼ通りのカフェの白黒写真がある。 バスルームは4畳半くらいの広さがあり、トイレも別なのもありがたい。


サンクトペテルブルク
(Wikipedia抜粋)
サンクトペテルブルクは、ロシアの都市、レニングラード州の州都である。かつてロシア帝国の首都であった。第一次世界大戦開戦以降(1914 - 24年)はペトログラード、ソ連時代(1924 - 91年)はレニングラードであった。英語圏ではセントピーターズバーグ呼ばれる。日本では「サンクトペテルスブルク」と表記される。
ピョートル大帝によって1703年5月27日に築かれた人工都市であり、モスクワとサンクトペテルブルクは母性と父性として対比されることもある。その背景としては、モスクワが「大地信仰」を根底とするロシア(「母なる大地、母なるロシア」という表現が用いられる)を象徴する土着の都であったのに対し、ペテルブルクは西欧に倣って「人工的」に建設された西欧的・キリスト教的な父性支配を象徴する都と考えられる、ということがある[要出典]。もっとも、音楽史では西欧派のチャイコフスキーらがモスクワに拠ったのに対し、民族主義を掲げるロシア五人組がペテルブルクに集ったように、この対比は必ずしも固定的ではない。大北方戦争の過程で、スウェーデンから奪取したバルト海・フィンランド湾沿岸のイングリアに新都として造営された。造営前のサンクトペテルブルク一帯は荒れ果てた沼地であり、河口付近にはペトロパヴロフスク要塞も同時並行で建設されるなど、建造作業は過酷なもので、多くの人命が失われた。その数は1万とも言われる。建設後はロシア帝国の首都としてふさわしい街となるよう歴代の皇帝により整備がおこなわれた。1725年には科学アカデミーが、1754年には王宮として冬宮が完成。ネフスキー大通りが整備され、冬宮を中心とした放射状の街並みが作られていった。1757年には演劇アカデミーが創設され、エカチェリーナ2世時代の1762年には冬宮の一角にエルミタージュ美術館の元となる展示室が開設された。人口も増加し、1725年には10万を超え、1800年には22万人が居住していた。1819年にはサンクトペテルブルク大学が創設された。1825年にはデカブリストの乱がこの街で起きたもののすぐ鎮圧された。1837年にはペテルブルクとツァールスコエ・セローとの間にロシア初の鉄道が建設され、1851年にはモスクワとサンクトペテルブルク間の鉄道が完成。[6]この頃より近代化が進み始めた。なお、1873年当時のサンクトペテルブルクの様子は日本の岩倉使節団の記録である『米欧回覧実記』に詳しく記されている[7]。そして19世紀末には聖イサアク大聖堂や血の上の救世主教会など、現在でもサンクトペテルブルクの名所となっている建築物が相次いで建設された。また、民間の経済力も向上し、ネフスキー大通りを中心に豪壮な建築物が立ち並ぶようになった。これらの建物の一部は、現在でも残っている。人口も増加し、1869年には67万、1910年には190万人に達していた。ロシア革命では二月革命・十月革命の2つの革命の中心地となり、武装蜂起によるボリシェヴィキの政権奪取やレーニンによる憲法制定会議の解散が起こった。その後、ソヴィエト政権は外国からの干渉を恐れ、首都をより国境から遠いモスクワに移転、1922年に正式に定められたことで、この町は政治の中心地から外れた。ロシア・フィンランドの国境に近い為、スターリンはフィンランドに対して「大砲の射程内の地域」の割譲を要求したが、フィンランドはこれを拒み、1939年の冬戦争が勃発。フィンランドは善戦したが、結局翌1940年、当該地域の割譲で講和がなされ、この戦争が中立的であったフィンランドの枢軸陣営参加を招いた。第二次世界大戦中は、フィンランド、ドイツ両軍を基幹とする枢軸軍によって約900日にわたる包囲を受けた(レニングラード包囲戦)。枢軸軍は敵の戦意を挫くため街と外部の連絡を徹底的に絶ち、物資が途絶えた市中では飢餓により市民・軍人に多数の死者が発生したが、ソ連側は凍結した湖から細々と物資輸送を行うなどして耐え抜いた。その功績により、レニングラードは英雄都市の称号を与えられた。戦後もレニングラードはソ連第二の都市として存在したが、その歴史的経緯からモスクワとは違った文化や風土を維持した。また、レニングラードの共産党第一書記になることは、ソビエト体制の中で重要な位置を占めることと同義であり、クレムリンでの権力ゲームでも影響力を持つことになった。とはいえ、革命以降でサンクトペテルブルク出身者がトップに登り詰めたのはウラジーミル・プーチンが初めてである。1998年に周辺の8市17町(ツァールスコエ・セローがあるプーシキン市やクロンシュタット等)を編入し、市域が拡大した。2008年5月に首都モスクワから憲法裁判所が移転し、サンクトペテルブルクはロシアの首都機能の一部を担うこととなった。


荷物を整理したあと早速街に出る。ホテル前通りを100㍍進むと大学河岸通りに出て平行して流れる「大ネヴァ川」は名前の通りの大河だ。


大ネバ川・ブラゴヴェシチェンスキー橋

ブラゴヴェシチェンスキー橋(下を噛みそうな名前)は広い歩道があるものの脇を走る車のスピードはけたたましい音、ロシアの運転は本当に乱暴だ。
橋から見える景色は素晴らしいのに歩道上は車の騒音でせっかくの景観も損なわれてしまう。
もう静かにゆったりした気持ちで街に浸れるように出来ないものなのか。
ロシアの政治家や国民は現状をわかっているのだろうか?などと憤慨してもしょうがない、騒音の中でも街の情景を楽しみ浸らなければ来た意味がない。



マイリンスキー劇場

ブラゴヴェシチェンスキー橋を渡り、車の往来の激しい通りを進み左に折れ運河沿いの道は静かな通りでここはとても静かで歩きやすい。運河沿いを進むとマリインスキー劇場の裏手になる。表通りに出てマイリンスキー劇場前には演目を見る人、チケットを求める人、観光客で賑わっていた。


マリインスキー劇場の通りの向かいがサンクトペテルブルク音楽院劇場

マイリンスキー劇場はロシア帝国時代・首都サンクトペテルブルクに建てられた皇室劇場で、帝国を代表するオペラ、バレエの中心施設だった。チャイコフスキー作曲・バレエの名作「眠れる森の美女」「くるみ割り人形」「白鳥の湖」は、ここで初演された。サンクトペテルブルク歴史地区の一部としてユネスコの世界遺産に登録されている。
今夜のマリインスキー劇場は「楽劇・神々の黄昏」と出発前に調べ馴染みのない演目なので観劇はあきらめていた。

マリインスキー劇場の通りの向かいにチャイコフスキーが卒業第一期生だったサンクトペテルブルク音楽院があり、そちらに行くと小さなチケット売場があり今夜の演目は「白鳥の湖」。マリインスキー劇場とは比較できないだろうがロシアバレーに触れることは出来るのではないかと劇場入口から入るとすぐに小さなチケット売り場の窓口がある。
チケット売場は老婦人が案内していて、座席表を見せてもらう。しきりに2階最前列を指差して進める。
とてもいい席のようだ。値段は2800ルーブル(\7000)。旅行前インターネットでは一人100ドル以上してたと思うので格安だった。



夜のバレー観劇チケットを買った後さらに
その先のニコライ聖堂近くの運河沿いの道を散策していると、NHK.BS「街歩き」で録画して見た橋や広場で懐かしい気持ちになる。近くのスーパーに入る。近所の人が買物するスーパーらしい。おやつや5㍑のお水を買ってホテルへの帰り道は大ネバ川を渡って。


5㍑のお水をかかえて
ホテルへ

ホテルに戻り夕食。
19時半、お洒落してサンクトペテルブルク音楽院のバレー公演を観に行く。 
劇場に入るとチケットの席がロシア語表記で内容がよく判らない。近くにいた日本のツアー添乗員の人に席の位置を聞くと親切に教えてくれる。
チケット売場の老婦人のいった通り2階最前列は前の人の頭もなく舞台も間近に感じられ足元も広く最高の席だ。開演前の劇場の雰囲気は独特だ。
20時開演。


白鳥の湖・開演前のサンクトペテルブルク音楽院劇場
サンクトペテルブルク音楽院

サンクトペテルブルク音楽院
1862年アントン・ルビンシテインによって創設された。モスクワ音楽院とともにロシアにおける音楽学校の中心として、数々の音楽家を輩出している。その中に、チャイコフスキー、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチ、バランシン、日本人ではヴァイオリニスト・前橋汀子、指揮者・西本智美らがいる。

ヴァイオリニスト
前橋汀子



指揮者
西本智美
1862年創設当時 2012年現在

サンクトペテルブルク音楽院・劇場の『白鳥の湖』



白鳥の湖は馴染みのメロディも多く内容も解りやすいのだが、演じたのは音楽院の生徒らしく素人の我々にもわかるくらいテクニックはいま一つだったが充分楽しめた。ただ後ろに座った中国人グループの騒々しいこと。開演中にもかかわらず大声で喋るは、みかんやりんごを食べるはで騒々しい。途中隣の外人さんがガツンと注意されると中の一人が「I'm sorry」と英語で言って素直に静かになった。


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音楽院を出ると前がマリインスキー劇場

23時過ぎバレー観劇を終えて外に出る。深夜の時間に不安があったが思ったよりサンクトペテルブルクの治安はいいようで、女性の一人歩きも多く全然心配はなかった。


夜のマリエンスキー劇場


大ネヴァ川を渡り、左に300メートル、大通りを渡ると滞在しているホテル・SokosVasilievsky


タリンからバスで入国しタクシーでホテルに行き、広いペテルブルクの街を歩き回って、いろいろ出来事のあった一日でとても疲れやっとホテルに帰る。

17355歩 11.3㎞
9月30日(日)
Hotel
SokosVasilievsky
フィンランド駅
エルミタージュ美術館
Hotel
SokosVasilievsky


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SanktPeterburg
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サンクトぺテルブルク
ホテル













9月30日 日(5日目)  曇り時々雨  ロシア・サンクトペテルブルク8時起床 ラジオ体操 
9時~1階レストランで朝食 朝 はいつもながらしっかり食べる。
大広間が3つあるレストランは日曜のせいか満席。
11時ホテルを出て、明後日ヘルシンキへ行くアレグロ号の始発駅を観光がてら見に行こうと歩き始める。大ネヴァ川と反対側に向かってホテル最寄駅の地下鉄3号線ヴァシーリオストロフスカヤ駅(ロシア語表記は全く読めない)を右折して小ネヴァ川に架かるトゥチコフ橋を渡る頃雨が降り始める。橋を渡ると左にペトロフスキ・スタジアムがある。名門FCゼニト・サンクトペテルブルク(2011年に新本拠地移転)の本拠地だった。



砲兵博物館


ペトロパブロフスク要塞 ロシア正教会の大聖堂

小ネヴァ川を渡り砲兵博物館前へ。戦車や大砲が無造作に並び、間近で初めて兵器を見る。
平和目的ではなさそうだし、兵器を誇示してるのか、何の為の展示なのか意味が解らない。
砲兵博物館から通りの向こうにペトロパブロフスク要塞の金色に輝く尖塔の聖堂が見える。
更に河岸通りを進むと正面には繋留された『巡洋艦オーロラ』だ。



巡洋艦オーロラ(アヴローラ)
1897年5月23日サンクト・ペテルブルクのアドミラルティ造船所で起工した。日露戦争開戦時第二太平洋艦隊通称バルチック艦隊に編入されロジェストウェンスキー提督の指揮下、極東へ派遣された。1905年5月27日に連合艦隊と交戦(日本海海戦)し、艦長が戦死するなど損傷を負った。27日夜に「オレーク」などと共に南方へ逃走、6月3日にアメリカ領フィリピンに到達、マニラで抑留された。1906年にバルト海へ戻ると、武装を降ろしバルチック艦隊の練習艦となり、バルト海・地中海・インド洋で活動した。第二次世界大戦のレニングラード攻防戦で、アヴローラの砲台は船体から撤去、陸上砲台に転用され船体はオラニエンバウム港のドッグに収容されたが、連日ナチス・ドイツ軍の砲撃に晒され、ついに1941年9月30日港内に着底した。1944年7月20日に浮揚され、戦後1945年から1947年にかけて大規模改修が行われた。1948年より練習艦としてネヴァ川河畔に係留され、記念艦として恒久的に係留されることとなった。


港を抜け大ネフカ川を渡る頃もう足は棒のようになっている。ひき帰すことも出来ず道を尋ね尋ねながら雨の中フィンランド駅を目指す。12時半ごろやっと駅に到着する。駅は国際列車が発着するにしては地味な駅舎。


フィンランド駅

今日はエルミタージュ美術館に行くのが大きな目的なので、帰りは地下鉄1号線プローシャチ・レーニナ駅から乗車、2つ目のエルミタージュ美術館の最寄り駅マヤコフスカヤ駅で下車。ロシアに入って初めての地下鉄。乗客はやはりロシアらしく皆暗く堅い表情で他の西欧諸国の車内とは違う異様さに感じた。しかし駅そのものはとても優雅な豪華な造りであった。2つ目の駅で下車するとサンクトペテルブルクの中心だけあって沢山の乗客が一度に降りホームはいっぱいで2台あるエスカレーターは1台は閉じて1台しか動いていないのでエスカレーター前は押し合いへし合いの様相。なんで両方動かさないのか判らない。登りのエスカレーターは上に見上げると、下るときよりはしっかり長さが判ってやはりすごい長さだ。調べるとやはり駅の異常なくらいの深さは冷戦時代の遺物で防空壕を兼ねて建設されたものだった。


マヤコフスカヤ駅を出たところがネフスキー大通りに面したゴスチーヌィ・ドヴォールという百貨店でショッピングアーケードのような造り。外は雨の為軒下にみんな雨宿りをして、しばらく一緒に雨が小降りになるのを待った。ネフスキー大通りのカザン聖堂前を通り道を尋ねたロシア人女性二人連れがちょうどエルミタージュ美術館に行くようなので、あとについてモイカ川を渡り右に折れ裏道からビルの下を抜ける道をでると正面にエルミタージュ美術館前広場に出る。


写真や映像で何度も見たエルミタージュ美術館の白グリーンの建物は冬宮の名前の通り瀟洒な宮殿のようだった。正門を入ると中庭で当日券を求める人のなが~い行列ができている。
インターネットで予約して来たので行列の脇を通って中のチケット売場へ進む。やっと中のチケット売場にたどり着き予約券を見せると交換する場所を言われたが全く解らない。あっちこっちうろうろしてやっと見つけた交換場所はさっき入った正門の小さな窓口で小さくインターネット予約交換場所の表示。下調べしたのと全く違う場所でわかる訳がない。窓口に予約プリントを提出、クレジットカードで決済して、あっさり入場券を手渡されまた大混雑中のチケット売場脇の美術館入口へ。世界屈指の美術館らしく、入口では飛行機に乗る見たいなセキュリティチェックを受けてやっと入場する。


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中に進むと正面に目を見張るような豪華な「大使の階段-ヨルダン階段」。記念撮影をするスポットなので、みな写真を撮ってから上っていく。階段を上がり2階へ。聖ゲオルギーの間、パヴィリオンの間、紋章の間、ピョートル大帝の間、など美しい装飾の部屋が続く。雨の中歩き疲れてはいたが、ゆっくり休み休み世界の名画を見てまわる。午後3時過ぎエルミタージュ美術館を出ると、外はまだ大雨だった。歩道は横を疾走する車で疲れが増幅する中、元気を出してホテルにやっと戻ってくる。お風呂を沸かしてゆっくり入浴。生き返るように気持ちいい。

24000歩 15.6km



エストニア・タリン

サンクトペテルブルク(B)
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