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海を見ていた午後
2024年3月20日~8月10日
総合救急医楼センター各診療科.部門
循環器内科 脳神経外科
脳神経内科 心臓血管外科
外科 整形外科
形成外科 集中治療科
リハビリテーション 麻酔科
精神科 精神科医療相談科
精神科リハビリテーション アウトリーチセンター
検査科 放射線科
栄養科 臨床工学科
薬剤部 看護局
災害医療局 医療連携支援室
医療安全管理室 感染管理室

3月20日/総合救急災害医療センターへ救急搬送

急性大動脈解離/父..闘病記
娘が細かく記録してくれた

病院は三次救急医療施設
三次救急医療施設は、二次救急では対応できない重症や重篤な患者に対して、高度な救急医療を提供する医療機関。救命救急センターや高度救命救急センターが指定されており、365日24時間体制で救急患者を受け入れている
3月20日(水曜祝日) 午前8時.発症 
父、トイレから出たところで、突然のひどい胸の痛み。耐え難い苦しい痛みに母に救急車呼ぶよう声かけ。救急車を呼んだものの、少し痛みが治まったのでベッドに横になり一度救急車を断ってしまう。大動脈解離は一時間に1パーセントづつ死亡率の上がる病気。一刻を争う早急な手当てが必要。119番を一度断ったが、直後に救急センターから「本当に大丈夫ですか?」と折返しの連絡があり、やはりお願いすることになる。この電話がなかったら危なかったと思う。ちなみに東京都ではまずかけおしはしてくれないらしい(緊急の人が多すぎる為)  痛みに耐えながら待つ。過去に感じた事のない痛みだったよう。大動脈解離になった人の多くがトイレで解離する人が多いようだが父も同じくトイレで解離した。

2024年3月20日 救急搬送
2024年3月21日 検査.応急処置
2024年3月22日 解離.応急処置
2024年3月23日 16時一回目手術
2024年3月24日 3時手術が終る
2024年3月25日/ICU(集中治療室)
2024年4月01日 解離二回目手術
2024年4月02日ICU(集中治療室)
2024年4月07日/ECU(救命治療室)
2024年4月12日 個室に移る
2024年4月22日 四人部屋に移る
◆大動脈解離とは 国立循環器センター
入院中、点滴.投薬.リハビリの日々
食事いろいろ 術後せん妄とは
2024年5月16日 退院


「B型解離について」⇒
大動脈解離を患った人達⇒



CT室
9時15分 救急車到着。 
父は歩けると言うが、救急隊員の方から絶対に歩かないでくださいと、車椅子に乗せられ救急車へ。救急隊員から幾つか質問に母が返答するのが聞こえた。
9時30分、搬送先が「総合救急災害医療センター」にやっと決まり搬送される。その病院は昨年オープンされた最先端医療設備のある病院だった。もし、かかりつけの 2つの病院(C大学付属病院かS労災病院)が祭日で満床と受け入れられず、運ばれたら手術室も確保が難しく緊急手術は出来なかったかもしれない。そう思うと最新設備のあるこの病院に運ばれたのはとても幸運だった。
10時30分
搬送先「総合救急災害医療センター」に到着後直ちにCT検査、診断の結果は父の場合、心臓に近い部位の「大動脈解離(A型解離)かいり」だった。(大動脈解離(かいり) は大動脈を構成する内膜、中膜、外膜のうち内膜が破れることによって中膜に血液が入り込む状態。そのまま重篤な患者を治療する「集中治療室ICU」へ移された。

大動脈解離は、胸や背中に激痛が走り、動脈壁の分離により痛みが現れる。心臓の周囲(A型)で発症した場合、死亡の危険があるため緊急手術を行う、父は(A型)。急性大動脈解離を起こした人のうち61%が病院に到着する前に亡くなる一刻を争う病気。

母から「C病院」とだけ伝えられたので、病院を探すのに苦労した。後でわかったが、母は父の状態を貧血くらいと思っていたので、靴も持ってきてすぐに帰るつもりだったらしい。しかしずっと1時間近く待合室で待たされ、その後先生から「かなりまずい状況」と伝えられ即入院手続きをする。
3月21日(木)入院一日目
午前中、入院手続きの際受付で高額医療費控除の説明を受ける。(この手続きをすると医療費がかなり安くなる)すぐに手続した方が良いということなので、市役所に向かう。こんな最中になぜ手続きをしなくていけないのか?疑問に思ったのだが、後でわかったことだが、同じ大動脈解離になった方が、この申請が間に合わなく300万円以上支払う事になったことを知り、こんな状況ではあるが言われた通りすぐに手続をしてよかったと思う。
父の意識が少し戻り、痛み止めが効いてきたおかげか話ができる。「とにかく喉が渇く、食べ物と水があったら父さんは間違いなく水を選ぶ」と言ったそう。それくらい水が飲みたがっていたそうで可哀そうだ。しかし、今は水すら飲むことは許されず、1ミリも身体を動かしてはいけない状況なのである。父の大動脈は解離はしているものの、破裂はしていない。破裂させない為に、水を飲む動きでさえ身体を動かしてはいけないそうだ。(保存治療)痛みはないが動けないのが辛そうだ。動けないので携帯も勿論触れない。ストレスもあるので、イヤホンやラジオの準備をする。そんな状態の父を見守ることしかできず、母は極度の心配の様子。


3月20日搬送
 応急処置
3月23日手術



大動脈解離を患った人達⇒
「B型解離について」⇒



3月22日(金)入院二日目  解離(かいり)は2㎝ほどで保存治療し解離個所を固める処置。
14時面会(ICUの面会時間は僅か15分)  父さんは今日も薬が効いているせいか、痛みも落ち着いている様子。病院にも慣れてきてあと一週間は病院にいても大丈夫と言って頼もしい。解離は2センチほどで、破裂はしていないので手術はせず保存治療をする方向、解離した箇所が固まれば大丈夫?らしいのだか。
退院できそうな気配が本人にはあったのか、救急搬送される前、計画していた新潟方面旅行について「新潟には行けそうだから絶対キャンセルするな、最高に完璧なプランだから」という。退院できそうな感覚が本人にもあったし、そんな様子を見てみんなも大丈夫かなと思った。そして何より明日は靴を持ってきてほしいと病院から言われた! 大動脈解離をネット検索すると本当に危ない病気だったことを知り、とても怖かったが、父さんは助かるんだ!明日は退院かしらと母さんが喜び安堵する、一方保存治療だは根本は直っていないわけで、母さんは、家に帰って本当に大丈夫かしらと不安でいっぱい。
2024年3月23日
   「大動脈解離」手術
3月23日(土)入院三日目   緊急手術  
午前中、A姉ちゃんが来た、母さん皆で一緒に病院へ行く仕度。面会時間は14時から(ICU)家では出かける前、父さんの靴を用意して「今日退院かしら」などとウキウキしていると、病院から電話がかかる。「緊急手術をしますので、至急病院へ来てください」と、気持ちは一気に奈落の底に。
保存治療したが解離が進み緊急手術をすることになる。病院に着くと、執刀医は外科部長Y医師から説明がある。手術の同意書が必要で、Y先生から経過と手術の説明がある。父も説明を受けていた。
15時~手術室に入る前、父と最後の会話。父もA姉ちゃんと泣きながら話す。
「父さん頑張ってくるから」と言い残して手術室へ。胸が締め付けられる思いで送る。父さん自身も先生から話を聞いていてまさかこんな大手術になるとは思っていなかったと思う。看護師さんと母が会話中「ピピピー」と危険音が後でする(父さんの血圧メモリが高くなる音) A姉ちゃんがもう一度父さんのところに会いに行っていた。看護師さんから「協力してください!」と注意を受ける。もう一度話したい、もう一度声をかけたい気持ちが痛いほどわかる。
16時~手術が始まる。
それから手術が終わるまでの12時間、母、姉、私達がICUの待合室で待つことになる。フランスに居るM姉にずっと黙っていたが、さすがにこの時点で電話をして事情を伝える。母が電話を代わるとむこうで号泣して、逆に母からしっかりしなさいと姉に話した模様。母は強い。
3月24日(日) 昨日の夕方始まった手術は早朝まで続きやっと終わる
手術は心臓の弁が動いていない為人工弁に変えられ、大動脈は人口血管に替えられた。体はマイナス25度(確か?)に冷やして心臓を止め、とにかくフルコースで行うとのこと。待つ間、私たちは駅のイオンで夕飯を買って、この病気で一命を取り留めた人などのブログをなど見つけその話をしたりする。母と姉妹一緒だったが、こんな場所で一人で待つ人は辛いだろうなと思う。待合室は広くソファーも幾つもあったが、誰も横にならず、眠ることもなかった。こんな深夜の長い時間ずっと手術を続ける医師や看護師さんは本当にすごい。ありがたい気持ちでいっぱい。感謝、感謝。
深夜午前1時 
昨日16時から始まった手術は深夜1時に終了した。
看護師さんが手術室から出てこられ「手術は終わりました、これから縫合したあと先生が手術の記録をまとめて、説明がありますのでもうしばらくお待ちください」と伝えられる。しばらくして、Y医師から丁寧に手術についての説明がある。「手術は成功したが予断は許さない状況、薬の関係で血が固まりにくく縫合した間から血液が体内で固まってしまう場合があり、その場合は再手術する必要があるので、もう30分くらい待ってください」とのこと。

2024年3月20日 救急搬送
2024年3月21日 検査.応急処置
2024年3月22日 解離.応急処置
2024年3月23日 16時一回目手術
2024年3月24日 3時手術が終る
2024年3月25日/ICU(集中治療室)
2024年4月01日 解離二回目手術
2024年4月02日ICU(集中治療室)
2024年4月07日/ECU(救命治療室)
2024年4月12日 個室に移る
2024年4月22日 四人部屋に移る
◆大動脈解離とは 国立循環器センター
入院中、点滴.投薬.リハビリの日々
食事いろいろ 術後せん妄とは
2024年5月16日 退院



大動脈解離を患った人達⇒
「B型解離について」⇒


午前3時  Y先生が出てこられ、ここまでの経過の説明がある。母は小さくなって下を向いている。先生は、そんな様子の母だけを見て話し続けた。先生の誠意が感じられ、ありがたかった。
先生から「手術は成功しました。が まだ予断を許さない状況です。薬の関係で血液が固まり難く、縫合した間から血液が体の中に溜まってしまう場合があり、その場合はもう一度再手術しなければならず、もう30分くらい待ってください」と説明がある。しばらく経過して、血液は大丈夫そうだった。よかった。

午前4時 Y先生から再び説明が「再手術は不要となりました」と言われる。
父はそのままICUに留まり24時間体制で看護を受ける。
手術が終わって、ICUの父さんに皆で会いに行く。大動脈解離(かいり)の手術の死亡率は15%、けっして楽観できない手術だっただけに父さんが息をしている姿を見て本当に嬉しかった。
午前5時、全員一時家に帰る。A姉は仕事があり、始発電車で帰る。
看護師さんから、看護している人が倒れてはいけないので、しっかり休んでくださいと言われる。父さんのいない家。母、Ai、Ka、三人で寝る。母さんはため息のような深い息をしていた。永い一日だった。 病院から再び電話のないことを祈るのみ。
大動脈解離とは 参照~国立循環器病センター
大動脈は内膜、中膜、外膜の3層に分かれている。中膜がなんらかの原因で裂けて、もともとは大動脈の壁であった部分に血液が流れ込むことで大動脈内に二つの通り道ができる状態が大動脈解離。

大動脈解離の原因
動脈硬化、高血圧、喫煙、ストレス、高脂血症、糖尿病、睡眠時無呼吸症候群、遺伝などのさまざまな要因が関係すると考えられ、大動脈解離の発症が多い年齢は男女とも70代とされてるが、40代や50代で発症することも稀でない。時間的には活動時間帯である日中が多く、特に6~12時に多いと報告されている。逆に深夜から早朝は少ない。
大動脈解離は、ほとんどの場合、血管が裂けているため血管の壁が薄くなり、きわめて破裂しやすい状態にある。特に上行大動脈に解離が及ぶA型では、1時間に1%ずつ死亡率が上昇すると言われ、48時間以内におよそ半分の患者が亡くなることになる。
3月25日(月)入院五日目  
14時  今日も面会に行ったものの、これから数日間は意図的に睡眠薬で眠らせるとのこと。救急車で運ばれたとき、なぜすぐ手術せず保存治療処置なのか疑問に思ったが今回手術の説明を受け、手術にはかなりのリスクがあることが分かった。手術中に亡くなるリスクもだが、術後の後遺症、一番怖れていたのは「脳梗塞」。意識が戻らない人もいるし、身体が全く動かなくなった人(寝たきり、車いす)、旅行好きな父さんがそんな状態になったらという心配でいっぱいだった。とはいえ、みんなで車いすならまだいい、とにかくいきなりこのまま死んでは父さんも無念だろう、一度でもいいから目を覚ましてほしいと話す。
脳梗塞かどうかは、意図的に眠らせた後、起きた時の反応を見ないと判らない。しかし看護師さんがら、今日は左足が動いたと嬉しい言葉。みなで見守る中、右足も動いた!よかった、少しだけだが期待をしてしまう。

3月26日(火)入院六日目 
14時  面会に行く。病室に入る前理由のわからず「少しお待ちください」と外で待たされる。何かあったのか心配するが、特に問題もなかった。ICUに入る時はいつも不安だ。父さんは顔色もよく順調そうに見えるがまだまだ心配な事も多く、今日は肺に水が溜まった、不整脈もあり、7秒間心臓が止まってペースメーカーをセットする。 肺の水は腎臓のせいかもしれない。ただ嬉しいのは寝てはいるが、話しかけると口を動かしてくれたり、両足をバタバタさせたりする。
3月27日(水)入院七日目
今日は孫(父から見て)のYちゃんがきてくれ母と3人で一緒に病院に向かう。
昨日心配した、肺の水は右側にも溜まっていると言われる。体にたまった水が外に排出されないのが今の問題。利尿剤を使い始める。通常大人の尿は200ccだが今は100ccぐらい出ていて問題ない。ただ肺に溜まった水はおしっこが出ない分溜りやすいとの事。利尿剤が効いてたまった水が出てくれるといいのだが。
父さんの様子は、話しかけるとすごく反応がある。足も動いている。とくに母さんの声に反応する。母さんは最初こわごわ近寄らなかったが、父さんが反応するとすごく嬉しそうにたくさん話しかけていた。父さんが私達の声に反応するたびにみんなで泣いた。面会できない病院も多いと聞くが、毎日一目でも様子が見に来れるのはありがたい。
3月28日(木)入院八日目 
14時 面会時間なのに何故か許可されず焦る。毎日受付から院内に入る時が本当に嫌。ストレッチャーで運ばれる人などが目に入る、足がだらりとたれて、父さんなの? 母さんが身を乗り出して確認している。そんな母の姿を見るのが辛い。運ばれていくその方には申し訳ないが、父さんではなくほっとする。やっと中に入れた。今日は主治医のY先生から話していただいた。前日の肺に溜まった水は無事今朝に抜け、薬の利尿作用がうまくいって、おしっこも出始めていた。父さんの呼吸に合わせて人口呼吸を動かし始め、足りない分を足している感じ。
呼吸数値目標は98だが父さんは94で、人工呼吸器は外せない感じ。とはいえ明日には管が外せるかもしれない。外せれば鎮痛剤の量も減らせて意識もはっきりしてくるよぅだ。先生に「峠はこしたのでしょうか」と聞くと、感染症(緊急手術の場合身体を殺菌せずに手術する)の可能性が未だ拭えないが、心臓の状態と、心配だった脳梗塞については、初めて先生から「大丈夫そうです」との言葉、嬉しかった。今後は血圧の薬を飲んでいれば大丈夫とのこと。
そして、あと最低2~3週間入院し、そのあとリハビリ病院に転院し「トイレに一人で行けるようになったら退院できます」と、この先の話をしてくれた。
もう少しで意識のしっかりした父さんに会えそうだ。Y先生に感謝。
病院見取図

3月29日(金)入院九日目 
14時 面会に行く。焦点は定まらないが、眼を開いている時間も長くなって、こちらの声掛けに、うなずいてくれている。(後日父さんに聞いたところ救急搬送されてからの記憶が全くないとのこと)ただ、看護師さんが「痛みはないですか」と父さんに問いかけると「うん」と頷いたりして意思の疎通は出来ている。身体のリハビリも開始する。人工呼吸器はまだ外されていないが、明日か明後日にはやっと外されるのだろうと期待する。
3月30日(金)入院十日目 
14時 昨日は嬉しい反応もあったが、尿の出方(体から水分がでない)が悪くなってきて、透析することになった。血圧が上がるといけないので血圧を下げる薬を入れるが、血圧を下げるとおしっこが出ない。おしっこが出ないと又肺に水が溜まる。肺に水が溜まると呼吸ができない、人工呼吸器も外せない。人工呼吸器が外せないと感染所になりやすい。悪循環である。
ひとまず今日一日人工透析するということだが、眼が覚めた時人工透析を今後ずっとしなくてはいけないことになったらどうしよう。父さん絶対すごくショックだろうと思うと母さんも私も昨日までの期待が一気に吹き飛んでしまった。また、新たな不安ができてしまった。
2024年3月20日 救急搬送
2024年3月21日 検査.応急処置
2024年3月22日 解離.応急処置
2024年3月23日 16時一回目手術
2024年3月24日 3時手術が終る
2024年3月25日/ICU(集中治療室)
2024年4月01日 解離二回目手術
2024年4月02日ICU(集中治療室)
2024年4月07日/ECU(救命治療室)
2024年4月12日 個室に移る
2024年4月22日 四人部屋に移る
◆大動脈解離とは 国立循環器センター
入院中、点滴.投薬.リハビリの日々
食事いろいろ 術後せん妄とは
2024年5月16日 退院


3月31日(土)入院十一日目   14時面会。二度目の奈落の底に
透析はしているが、おしっこは未だ自力でできないとの事。Y先生に一番気になっていたことを聞く「透析を開始しましたが、今後元気になっても透析をしなくてはいけないでしょうか?」返事はNO!あくまで一過性で90%、続けることはないとのこと!、先生から本当に嬉しい返事、母さんも昨日の不安が吹き飛んだ。とはいえ父さんの身体から溜まっている水分がまだ出てこない。
手術前、体内にいろいろ入れるので約10㌔くらい太るらしい。そして手術後は体重がどんどん減るはずだが、父さんはまだ6㌔も太った状態。 透析は今後しなくたも大丈夫と先生からの言葉をもらえて、帰りの駅までの道では母さんとめちゃくちゃ喜ぶ。
今日は娘のYuちゃんも一緒だったが、面会は中学生以上なので面会できず、ICUの待合室で一人で待たせていたがお利口にしていてくれた。
18時 マンション役員会の方々が会計印(役員をしているので)を預かってほしいと来訪
20時 夜に病院から電話。先ほど喜んだのも束の間、私たちが帰ったあとの検査で数値が悪く、再手術が必要と連絡がある。父さんの腕の血圧が10のところ、足の血が7。本来腕と足の血圧は同じか、足のほうが高くなければいけない。それで薬を使わなくても血圧が下がってきており、水分(尿)も三日前の5分の1しか出なくなってきていた、それでこのまだと危険の状態とのことで、再手術が必要とのこと。再手術の方法は二つ。もう一度胸を開き心臓を再度止めて行う大きな手術。もう一つの手術は足の付け根からの血管治療ステントグラスト、風船を膨らませ人工血管の形を整える方法。
21時  お風呂からでた母に、病院から再手術の電話について話す。母さんは覚悟を決めた様子で「お父さんの死に装束の用意をする」と棚という棚を開け始めた。じっとしていることが出来ない様子だ。もう本当にだめだと思ったようだ。手術をするにも明日にしてほしいとしきりに言っている。一度大手術した後の父さんには二度目の大手術を耐える体力がないと思える。私は占いは信じないが、今日は母に言わせると、ついていない日で、明日にしてほしいという母さんの言葉にこの時ばかりは手術をするのにも明日にして欲しいと、なんにでもすがりたい気持ちが理解できた。母さんは今日は手術しないから大丈夫だといった。
今までで一番長い長い夜だった。隣に寝ている母さんの溜息ばかりが聞こえてなかなか眠れない。



二回目の手術
4月1日(月)入院十三日目 再手術
早朝 母さんから父の親戚に誰にも話さないのは万が一の時よくないので電話連絡してほしいと言う。  9時、父さんの家族に電話をして今日までの様子を話す。皆かなりびっくりしていた。
11時 病院から電話がかかる。再手術の方針がきまり手術を始めますのですぐに来てくださいとのこと。K姉も来てYuちゃんと4人で病院に向かう。手術の方法詳細は電話では教えてくれないので気をもみながら病院へ向かう。
13時 Y先生から再手術の説明を受ける。やはりもう一度胸を開けるのはリスクが高すぎるので足の付け根からステントグラストでの方法で行うとのこと。よかった。人口血管の形が歪んで(筒の部分が塞がっているように見える)押しつぶされているように見えるので、中で風船のように膨らませて形が元に戻れば成功、ただ、このような手術Y先生も初めての経験。例がないのであくまで、予測での手術になるとのこと。上手くいかない場合は別の方法を考えるといわれる。今までにない案件なので、学会などの資料として使う事になるかもしれず、同意書を書く。事例のない手術となる。
14時 手術時間は3時間  最初の手術と同じICUの待合室で4人で待つことになる。手術前には父と会えないと言われたのでYちゃんとイオンへお昼を買いに行く。ところが手術前母とK姉は父と話しができた(悔しい)
大勢の先生、看護師さんの見守る中、母が「頑張ってねYさん」と声をかける。両親は高校の同級生なのでいまもYさんと旧姓で呼んでますと説明すると、Y先生が「たまにそういう方がいらっしゃいます」と言ってくれた。手術前最後の会話が終わり手術室に入っていった。
父さんの手術中、病院外に庭に沢山のタンポポがあったのでYちゃんにお祖母ちゃんとみておいでとというと二人で出かける。すると不思議な事に、母さんが四葉のクローバーを見つける!四葉のクローバーは10万分の一の確率らしい。きっと良いことがある父さんは大丈夫、このクローバーは大事にとっておこうと話す。(帰って押し花にして保存する)
17時 手術が終わりY先生から説明がある。Y先生が珍しく少し感情的な感じで、やり切ったという雰囲気を感じ、すぐに成功したんだなと感じた。先生も未知の手術だったので相当プレッシャーがあったと思う。通常の男性の場合、大動脈は30ミリぐらいだが、父のは50ミリもあり、太い大動脈は解離しやすいデメリットだった。今回の手術はもう一本内側に人口血管を入れ膨らませたのでももともと太い血管だったのでもう一本いれても問題なかったそうで、太い血管がメリットになった。手術後の父さんは、手足の血圧が揃って、そして何より、尿もすごい勢いで出始めた!母さんもさすがに涙ながらに喜ぶ。小学生のYちゃんは、ICUに入れず一人で長時間待たしていたのだが、子供心にも大変な時というのが良く分かっていたようで、いい子でいてくれた。今日一日本当に長い長い一日だった。
大動脈解離は血管の壁が薄くなって破裂するほか、大動脈自体や大動脈から枝分かれする重要な枝の血流が障害されて痛み以外に多彩な症状を呈することがある。
例えば脳に血液を送る血管が解離で血流障害を起こした場合には、「脳卒中」による意識障害を疑われて脳神経科へ搬送されてから大動脈解離であることが分かることはよくあり、血流障害による手や足の痛みで発症したり、急性心筋梗塞を疑われてカテーテル治療を開始してから分かることもある。

突然、胸や背中に激痛が生じれば、大動脈解離も疑われるが、突然のことで冷静な判断ができないかもしれない。突然の胸や背中の激痛を起こす病気で、様子を見ても大丈夫と言える病気はないので、とにかく一刻も早く救急車を呼んで医療機関を受診し、治療を受ける必要がある。
診断が遅れないように、大動脈解離の可能性を疑うことが重要で、些細な症状であっても救急救命士や医師に伝えなければいけない。
4月2日(火)入院十三日目 
14時  面会に行くと、家族待合室で待つように言われる。毎回ジェットスターのように、期待しては悪くなり、の繰り返しだったので、また何かあったのかしらと母がすごく心配そうだ。30分ほど待たされて看護師さんがきてくれ、「足の付け根についていたチューブを抜き、止血していました」と、それで待たされたのだった。
今日もY先生から説明を受ける。手術前からの体重がまだ七キロも多く、人工呼吸器は外せないとのこと。「早まると肺に水が溜まり、再度着けるのは本人も大変なので、あせらず行きましょう」と言われる。人工呼吸器で口はずっと開けた状態なので感染症の心配もあり、一日も早く外したいところだがやむを得ない。呼吸の数値も99まであがってきており、後は身体の水分が抜けるのを待つのみ。

病室前



総合救急災害医療センター
病院見取図⇒
4月4日(木)入院十五日目
14時 今日もまだ人口呼吸器は外せない。ただ昨日より体重が2.5㌔減ってきた。そして鎮痛剤の量が減らされたので、意識ははっきりしていた(この時のことも父は全く覚えていないそう)
母が「痛くない?」と聞くと力強くうなずいていたし、眼も焦点があっていて母も今までになく、いつもの父さんだったと本当に嬉しそうだった。母も気を張っているが、弱気な時もあり心配だ。
4月5日(金)入院十六日目 
14時  面会。人工呼吸器が外れていました! 酸素マスクはしているが、自発呼吸が無事できるか様子を見ているそう。一昨日行ったときは、看護師さんから腕を上げることもできませんと言われたけど、手を持ち上げて「あぁー」と声も出ていた。すごい!
意識が戻り始める 4月6日(土)入院十七日目
14時  面会。Y先生から説明を受ける。体重は手術前より2㌔減り、腎臓の数値も元に戻ってきた。完治には三カ月くらいはかかるとの事。転んで怪我をするとかさぶたの中がぐちゅぐちゅになるように、父さんのお腹の中も同じようにぐちゅぐちゅ同じような状態とのことで、入院はあと一ヶ月は必要とのこと。
人工呼吸器をずっと着けていた為、声はすぐには出ないそう。鼻から流動食をはじめ、週明けには口からの食事を少しづつ始めるとの事。喉を使い始めると声帯が動き声も出始めるようだ。脳の検査はしてないが、大丈夫との事。
父さんに声をかける。母と判ったらしく泣いて喜んでいた。感情も出始めてきたようなので大丈夫! 母の話を聞いて父さんは何度もうなずいて聞いている。
2024年3月20日 救急搬送
2024年3月21日 検査.応急処置
2024年3月22日 解離.応急処置
2024年3月23日 16時一回目手術
2024年3月24日 3時手術が終る
2024年3月25日/ICU(集中治療室)
2024年4月01日 解離二回目手術
2024年4月02日ICU(集中治療室)
2024年4月07日/ECU(救命治療室)
2024年4月12日 個室に移る
2024年4月22日 四人部屋に移る
◆大動脈解離とは 国立循環器センター
入院中、点滴.投薬.リハビリの日々
食事いろいろ 術後せん妄とは
2024年5月16日 退院
2024年5月27日~ 定期検査⇒
4月7日(日)入院十八日目 
14時  なんと、なんと、今日面会に行くと、ECU(救命救急治療室)
に移動していた。母と信じられない本当かな、でも前回もECUに行ったけど再手術になったし油断できないよねと言いながらもうきうきしながら病室へ。すると父さんは睡眠薬は飲んでいないが眠いらしく、ほとんど目を閉じていて会話は出来なかった。
今朝、Y先生が父さんに質問した時の様子を教えてくれた。
Y医師「此処はどこですか?」 父「東京」 Y医師「病院にいるのはどうしてか解りますか?」 父「わかりません」 まだ今の状況は分かってないらしい。
Y医師「看護師は何人いますか」 父「手でピース」 実際二人だったのでその場の事は解ってるらしい。 昨日の話では、声を出せるのは一週間後との事だったが、今日はもう声が出始めていた。うがいも出来るようになり再手術から、めまぐるしく回復をみせていた。
4月8日(月)入院十九日目
14時 面会に行くと、父さんはベッドで目を閉じていた。父さんの携帯に入っている父さんの好きな音楽を耳元で再生すると、眼を開き涙が溢れ泣き始めた。そして、自分の病名を教えてもらったらしく「大動脈解離」と言ったり、「桜は咲いたか?」というので写真を見せると「綺麗だな」と言ったり、意識がはっきりしてきた。朝看護師さんに「今日、家内は来ますか?来たらよろしくお願いします」といったり、何をするにも「ありがとぅございます」と言っているそうだった。
面会から帰るときには「もう帰るのか?」と父を残して帰るのが悲しかったが、看護師さんもみんないい人ばかり、24時間見守ってくれるので安心だ。目が覚めてからは何を話しても泣いていて、生きている実感が湧いてきたのだろう。緊急搬送されて手術して、もう一度目が覚めて本当に良かったと思う。
4月9日(火)入院二十日目
14時  今日は更に回復している。母さんをみると「母さんが生きててくれた良かった。起きて母さんが死んでいたらどうしようと思う」と泣いていた。次の土曜日はA姉ちゃんが来るよと言えば、泣き。何を言っても感動しっぱなし。
そして、なんと明日は靴を持ってきてくださいとのこと。歩くリハビリを開始するのだ。帰り際、自分達には帰っていいぞというけど、母さんには「もう帰るのか?」と父さんらしい。笑
術後せん妄(じゅつごせんもう)
参照/健康長寿ネット
心臓手術は脳への血流に影響が出やすく、"せん妄"が起こりやすいとされています。70歳以上の高齢者、認知症や貧血のほか、習慣的な大量の飲酒、向精神薬や睡眠薬などの薬もせん妄の誘発要因ですが、詳しい発症メカニズムは分かっていません。
術後せん妄は、手術を受けたことがきっかけで起こる意識の混乱です。手術の侵襲によって、術後の患者さんは身体機能だけでなく、精神機能も低下するため、覚醒レベルが短いスパンで変動し、それが混乱状態として出現します。
 主な症状としては、失見当識、興奮、妄想、不安、抑うつ、幻覚などが挙げられます。また、安静が保たれず歩き回る、自覚なくチューブ・カテーテル類を抜管してしまうといった行動も認めることがあり、このような状態を「過活動型せん妄」といいます。反対に、傾眠傾向や反応に乏しいといった状態を「低活動型せん妄」、いずれの症状も認めるものは「混合型せん妄」と呼びます。
 術後せん妄は誰にでも起こり得ますが、一過性のもので、身体侵襲からの回復とともに症状は消失します。




術後せん妄(いろいろ)
正夢のような風景を見ていた
◇長野県の病院
◆滋賀県の石山寺近く"菩提樹"
◇アルハンブラ宮殿
◆和歌山"白良荘グランドホテル
◇鹿児島"城山ホテル"
◆城山の坂道を散歩しよう
◇有馬温泉"ねぎ屋"
◆広島の宮島
これ以外にも沢山見えていた


4月10日(水)入院二十一日目  術後"せん妄"(じゅつごせんもう)が始まる。
術後"せん妄"は、意識混濁に加えて奇妙で脅迫的な思考や幻覚・錯覚が見られるような状態。 集中治療室(ICU)や冠疾患集中治療室(CCU)で管理されている患者によく発生する
手術を受けたことがきっかけで起こる意識の混乱。主な症状としては、失見当識、興奮、妄想、不安、抑うつ、幻覚などがあげられる。また、安静が保たれず歩き回る、自覚症状なくチューブ・カテーテル類を抜管してしまうといった行動も認められることもある。術後"せん妄"は誰にでも起こりえるが、一過性のもので身体侵襲や麻酔に伴う脳内の炎症、術後疼痛が契機となって発症するとも考えれらる。
14時 面会に行く 今日も父さんの大好きな"山本潤子"さんの曲を耳元で流すと泣いて喜んでいた。ただ、朝ごはんは食べた?などの問いかけにはしっかり答えるのだが、"せん妄"により、ふと意識と夢と現実が混乱し始めていた。術後意識が出て2~3日後に出ると言われる「術後"せん妄"」でこの症状が出始めたのだ。意識が混乱しているのが自身でもわかるので更に混乱するのが"せん妄"だそうだ。"せん妄"の厄介なのは、夢も本当にリアルな夢らしく、現実なのか夢なのか、境界ないくらいはっきりした夢をみているそうだ。後にせん妄がとれてきても、あれが夢だとは到底思えないと言う。それほどリアルな夢らしい。この日の"せん妄"は、以前滞在していた、だるま夕陽を見た海、温泉、南紀白浜の「白良荘グランドホテル」に来ていることになっていた。「IとYちゃんも泊っていくんだろう」といきなりそんな話をし始めて母は少し困惑していた。そして父は「宇多田ヒカルのお母さんは藤圭子さんという事を看護師さんが知らなかったから、看護師さんに藤圭子さんのことを話してくれ」という、これも"せん妄"かなと思ったが、看護師さんに話すと確かにその話はしていたらしい。父さんに、看護師さんに伝えたよ。看護師さん知らなかったみたいだね、というと、自分が看護師さんに可笑しな事を言っていると思われたみたいで、それがすごく悔しかったのか泣いていた。夢の話を父がしている時の周りのリアクションが、あれ 可笑しいと感じる時があるのだろう。だから藤圭子の話も何を言っているのという態度を周りがとられてしまうと、不安になるはず。
25℃まで体を冷やして、心臓を止め、強い鎮痛剤を使い続けていたのだから、看護師さん(新人)ももう少し優しく対応してくれればと思った。お世話になっているので文句は言えないのだが、明日の看護師さんは違う人ならいいと思った。この"せん妄"は人によって終わる時期が違う。これからどのくらい続くのか、母さんも混乱する父さんを見るのが辛そうで、早く父さんのせん妄から早く回復してくれればいいなと思う。
"せん妄"との付き合い方について勉強する(否定しないいけないとか) 
 





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4月11日(木)入院二十二日目 
14時 面会に行く。せん妄が続く。 今日はなんと車いすに乗せて散歩に出ていいとの事。足に力が入らなそうだけど、お尻を動かすことができた。(動画があり)酸素ボンベを付け、男の先生と女性看護師さん付き添い、病身も1F玄関を出た所まで行く。Kタワーがあるので説明しやすかった。父さんはまるで「宇宙」にでも来たような反応だった。お陰で今日は一時間も一緒にいられた。身体を起こしている時間が長い程いいリハビリになるらしいので、散歩後20分ほど座って話をする。
座ってるだけなのだが、ひと月近く寝ていたので父さんは疲れて辛そうで早く横になりたそう。帰りは「めんどくさいから早く帰れ」などと言われる。笑 リハビリがはじまり、かなり身体は、きついみたいだ。せん妄で気持ちも不安定、とてもイライラすると言っていて、看護師さんにもあたってしまったとの事。実際はそんなにあたったわけでもないのだが、元々優しい人だから、ちょっときつい言葉を言ったと気になかったんだろうと思う。「リハビリがきつくてイライラしてしまったんだね、仕方ないよ」というと、大きく頷いていた。早く自信がつくといいなと思った。

病院玄関まで車椅子で、術後初めての散歩をさせてもらう。
しかし"せん妄"がでていて、景色と場所は、以前行った和歌山の白浜に見えている

車いすで術後初めての散歩
2024年3月20日 救急搬送
2024年3月21日 検査.応急処置
2024年3月22日 解離.応急処置
2024年3月23日 16時一回目手術
2024年3月24日 3時手術が終る
2024年3月25日/ICU(集中治療室)
2024年4月01日 解離二回目手術
2024年4月02日ICU(集中治療室)
2024年4月07日/ECU(救命治療室)
2024年4月12日 個室に移る
2024年4月22日 四人部屋に移る
◆大動脈解離とは 国立循環器センター
入院中、点滴.投薬.リハビリの日々
食事いろいろ 術後せん妄とは
2024年5月16日 退院
2024年5月27日~ 定期検査⇒









4月12日(金)入院二十三日目
11時  病院から電話がある。今日から個室の一般病棟に移ったとのこと。「嬉しいけど信じられない」と母から連絡がる。母も相当嬉しかったみたいだ。こんな嬉しい電話は入院してから初めて。
13時30分 今日から一般病棟なので、面会時間が少し早くなる。面会時間は15分?と言われたが、実際は17時までいても大丈夫なよう。一般病棟に移って何よりよかったのは陽の光が入ること。"せん妄"は昼夜がわからないのも原因らしい。すごく綺麗な個室。
"せん妄"は、まだ続いているがY先生は「"せん妄"は必ずものに戻ります」と言ってくれた。ただ、朝、Y先生はほとんど父さんは話をしてくれなかったとの事。
「母さんがきてからは、ずっと喋ってますと」伝えると、喋るのはとてもいいことなので沢山話をしてくださいと言われた。  
今日の父さんは九州で大河ドラマの”篤姫”の舞台になった鹿児島の城山ホテルにいるらしい。父さんは桜島の見えるホテルの露天風呂には入れないので、見舞いに来ていた、K姉に露天風呂に入って来いと言うので、K姉は"せん妄"は否定してはいけないので「お風呂にいってくるね」と言って出ていき、トイレに行ってくる。K姉がお風呂に行ったと思っているらしくすごく満足そうだった。看護師さん達は忙しいので父さんが話を("せん妄"の中)しても返事がこないので父さんも話を止めてしまうのかもしれない。
ちょうど今日は近くで花火大会があるらしく、Y先生がそれを伝えると写真を撮らなきゃと楽しそうだった。そして自分で水も飲めるようになっていた。

術後せん妄(いろいろ)
術後せん妄(せんもう)、正夢のような風景を見ていた

◇長野県の病院の中
◆滋賀県の石山寺近く"菩提樹"
◇アルハンブラ宮殿
◆和歌山"白良荘グランドホテル
◇鹿児島"城山ホテル"
◆城山の坂道を散歩
◇有馬温泉"ねぎ屋"
◆広島の宮島
◇夜の東京らしいホテルの中
◆救急男女隊員の人たち
◇広島の魚市場らしい
◆広島の駅前の歩道脇の部屋

これ以外にも沢山見えていた

初めて歩行器で部屋を出て歩く
退院するまでリハビリでお世話になった理学療法士のNさん

4月13日(土)入院二十四日目 
13時30分 今日はA姉ちゃんがきた。父さんは涙ながらお母さんに感謝の気持ちを伝えていた。  Y先生、いい病院で治療を受けられていること、前世の行いが良かったからと話している。"せん妄"は続いていて、滋賀県の石山寺近くの「菩提樹」という旅館や、鹿児島の城山ホテルの話になると「今度はみんなで行こう」という時もあれば、いま、宿泊している事になっている瞬間もあり、「明日は城山の坂道を皆で散歩しよう」と言ったりで、母いわく、昨日より現実の話が多くなってきているので嬉しいとのこと。A姉ちゃんも夢の中で「あしたはどうするのかな」と未来を語っていたことがとっても嬉しかったという、本当にそう思う。
更に夢の中でお母さんや姉に「お茶を飲め」とか「疲れたんじゃないか」など気を使ってくれて、やっぱり父さんらしいと思った。
4月14日(日)入院二十五日目
13時30分  今日もA姉ちゃんがお見舞い。旦那さんも来てくれた。(動画あり)父さんは昨日と違い不安感が強い様子だった。Y先生でなく、違う先生がきて、自分だったら早くリハビリ病院へ行った方が回復が早いのでそうしますという。この病院だと土日のスタッフは手薄になるので一日二単位しかリハビリをしないで横になっている時間が長いからだそう。その他の話もされ、母さんが又心配する。
2024年3月20日 救急搬送
2024年3月21日 検査.応急処置
2024年3月22日 解離.応急処置
2024年3月23日 16時一回目手術
2024年3月24日 3時手術が終る
2024年3月25日/ICU(集中治療室)
2024年4月01日 解離二回目手術
2024年4月02日ICU(集中治療室)
2024年4月07日/ECU(救命治療室)
2024年4月12日 個室に移る
2024年4月22日 四人部屋に移る
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入院中、点滴.投薬.リハビリの日々
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2024年5月16日 退院
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4月15日(月)入院二十六日目
13時30分  母が、昨日先生からリハビリ病院転院の話が不安らしいので、転院先のリハビリ病院の詳細を調べて伝えると、少し安心したようだ。今日父さんは、ほぼ現実の話をしていた。せん妄よりも、今は食事が問題。毎日の病院の食事がどうしても食べらないよう。2階のフロア内を家族だけで散歩(簡単なリハビリ)。廊下の掲示板に病院食の写真があると、それを見ながら父さんが「食事がまずいんだよなあ」という。海の見える休憩スペースで陽にあたると、気持ちよさそうだった。
4月16日(火)入院二十七日目
13時30分  今日面会中父が「ウンチしたい」と(入院して一人でトイレに行けていない)トイレに連れていく、なんと一人で便座に座り用がたせた!やっぱりトイレに行けたのが気持ちよかったみたい。昨日までは車椅子だったけど、今日は立ち車で歩いてリハビリ!先週まではやっと手足が動かせてすごいと言っていたのにすごい回復力
今日も食事はほとんど食べられず、差し入れたりんごジュースと200カロリーのバナナジュースだけは飲めた。
4月17日(水)入院二十八日目
13時30分  面会に行くと、疲れてるのか目をつむっている。りんごジュースを差し入れると、直ぐ飲んで「なんてうまいんだろう」と急に元気になった。食べ物の力恐るべし。時系列が3月20日救急車に乗ったまでしか、わからないというので、説明をする。自分が"せん妄"で夢を沢山見ていることも理解し始めていた。夢、現実を行き来する時があるが、少しづつ確実に良くなっている。りんごジュースの効果もありリハビリも積極的、一人で歩きたい、二階のフロアの端まで行きたいという。リハビリはやりたくない人も少なくないというので、積極的な気持ちで本当によかった。それと、今日はおしっこの管がようやくとれ、一ヶ月ぶりに一人でトイレに行けた。すごく気持ち良かったとのこと。よかった。
18時母は病院の食事が見たかったので、夕方まで一緒にいる。どれくらいしか食べていなかったのか見届けたかったし、味見もしたかったそう。今日の夕食、父はしょっぱい、母は甘く感じたそう。味覚がまだ戻っていないのかもしれない。最初の一口は勢いよく食べたが、とにかくまずいと、二口目がどうしても食べられない(食べようとすごく気持ちは頑張っているんだ) バナナならと思ったが、これは冷凍バナナだな(笑)とけちをつけていたそう。ずっと寝ていたから急には食べられないですよね...とリハビリ担当のNさんが言ってくれた言葉が、焦っていた母の気持ちを楽にさせてくれたようだ。
4月18日(木)入院二十九日目 
13時30分 面会、昨日、母が夕方遅くまでいた分、帰った後すごく寂しかったと泣いて悲しんだよう。また寂しくなるから、今日は早く帰れ、とずっと言っている。昨日、父が携帯で"せん妄"について調べて見せてくれと言ったそうだけど母の携帯がオフラインだったので調べられなかった、知りたい気持ちになれてよかった。
もう一度、時系列、術後せん妄について説明する
手術からしばらくして、病室での食事が開始されるが、全く喉を通らない。
やっと食べられるようになるのは、二度目の手術から2週間経過したくらいから。
食事時間は、朝=7:00~ 昼=12:00~ 夕=18:00~   ご飯は退院するまで、お粥にしてもらう。薄味で一日の塩分量は6グラム以下で、生魚や加工肉は提供されなかった。
BMI= 体重(Kg)÷身長(m)×身長(m) 
BMIはボ体重と身長から算出される肥満度を表す体格指数で国際的な指標として用いられている。健康を維持するためにBMIを把握することが重要。  


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4月19日(金)入院三十日目 
13時30分 面会  今日はなんと支えなしで、歩行できていて、トイレに行っているというので待っていると「よ~」と片手をあげて歩いてくるではないですか!もう母とビックリであります。そして、入院、手術後初めてのシャワー。看護師さん付き添ってだが、眼にシャンプーがはいって相当いたかったみたい。耳の後ろも真っ黒だった、鏡で手術跡を見てビックリ。傷跡は父さんが言うほどではなく、きれいな傷跡だった。
それから、それから、鼻からの食事チューブも外されたいた。それを抜かれる時すごく痛かったらしい。こんなに痛い思いをしているのに母さんはまだ家にいるのかと思ったと話しする。
面会は13時30分からなんだよと伝える。
そした、今日部屋が変わった。個室だが少し狭い。今までいた部屋は新人さん用の部屋だねなどと話す。字も書き始められたし、すごい一日でした。
4月20日(土)入院三十一日目
13時30分 A姉ちゃんがお見舞いに来る。今日はなんと来週末退院と言われる。それもリハビリ病院でなく自宅に帰れるとのこと。手術時に看護師さんから「自分で歩いて帰宅する方もいますから」と慰めてもらっていたけど、まさか本当にそんな事ができるとは、、父さんも頑張ったけど、母さんも本当にたいへんでした。あと少しです!
母はずっと飲まなかった大好きなワインを今日は久しぶりに飲みました。
18時  父から入院してから初めて家族LINEにメールが入る「今一人夕ご飯、先生が回診にきて、褒めれらた」と、嬉しい。
4月21日(日)入院三十二日目
13時30分   父さんもだいぶ良くなって、母が一人で面会。今日も「転ばないようにして、三度の食事もしっかり食べて、早く家に帰る」と頑張ってリハビリもしたそう。だいぶ集中力がでてきたとのこと。

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2024年3月22日 解離.応急処置
2024年3月23日 16時一回目手術
2024年3月24日 3時手術が終る
2024年3月25日/ICU(集中治療室)
2024年4月01日 解離二回目手術
2024年4月02日ICU(集中治療室)
2024年4月07日/ECU(救命治療室)
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2024年4月22日 四人部屋に移る
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2024年5月16日 退院
2024年5月27日~ 定期検査⇒

4月22日(月)入院三十三日目
13時30分 面会 四人部屋に病室が変わった。今のところ父さんを入れ二人、向かいのベッドの方に挨拶する81歳でやはり心臓病でもしばらくで退院らしい。 
 


4月23日(火)入院三十四日目
13時30分 午前中に自転車こぎの新しいリハビリメニューをする。20分くらいの自転車こぎを張り切ってやったので疲れたらしい。シャワーは嫌だと言っていたが、母に言われて一人で入ってくる。「せん妄」もほとんど無くなってきた。早く帰る為に頑張っている。Y先生から「ごはんをしっかり食べないと点滴しますよ」と言われ、鼻のチューブを抜くとき相当痛かったから「食べます!食べます!」と返事したらしい。
4月24日(水)入院三十五日目
13時30分 今日も母一人で面会  昨日に続き自転車こぎのリハビリをする。痩せてお尻の肉がなくなったせいか、自転車に座るとお尻が痛いらしい。前日はリハビリ室まで車いすで行ったが、今日は歩いて行くよう促され歩いていく。体力も日々確実に回復している。身体能力は半端ではない。ただ、4人部屋に移されてからは、ほかのベッドの会話(点滴がいたいとか、便が出ないとか、ネガティブな事も)が耳に入ったり、周りに気を使ったりで早く家に帰りたいと感じている。今日撮る予定だった、CTが明日に変更になった。
4月25日(木)入院三十六日目
13時30分 母一人で面会  今日のCT検査の後、熱があり寒気がするとのこと。憔悴していつもの談話室の長椅子に座っているとY先生が来て「白血球の値が多く、どうも腎盂炎の可能性がある」との事。急いで点滴、体力がなく免疫力が下がっているのやむを得ない。
残念だが27日の退院は延期になるらしい。退院は少し早いと思っていたし、今回のように免疫がない中こういう事も起こるんだという事がわかって良かった。病院にいればこんな時すぐに対処してもらえるし、早く帰りたいけど、焦らずもう少しの辛抱です。頑張って!
4月26日(金)入院三十七日目
13時30分 面会  鼻から酸素チューブが入っていた。熱が38度もあるみたいだ。トイレは自分で行けるが、話をするのも辛そう。そんな中、部屋では他の人に迷惑をかけるから外の談話室で話をしようとするので、今日は早めに退散する。母から明日はお見舞いに来なくていいよと言われるが少しでも父の顔が見たいし、私は来ることにする。
**********************************************************
帰り、この闘病日記を父に渡す。
『父さんのせん妄もほぼ無くなって来ているので、この病状日記を書くのも今日が最後になりそうです。続きは父さんが10年日記に書いてくださいね。
お父さん本当に生きていてくれたありがとう。みんな父さんが大好きです。目を覚ましてくれ、リハビリ頑張ってくれて、感謝感謝です。
お母さんは口うるさいですが、心配心配で仕方ない一月でした。父さんもまだまだ身体がきついですが、母の話は薬と思って聞いてあげて下さい』



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しかし病室のベッドの上から見る、綺麗な青い空、青い海の眺めはなんの感動もなく、こんな経験も初めて。
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2024年3月22日 解離.応急処置
2024年3月23日 16時一回目手術
2024年3月24日 3時手術が終る
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2024年4月02日ICU(集中治療室)
2024年4月07日/ECU(救命治療室)
2024年4月12日 個室に移る
2024年4月22日 四人部屋に移る
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病院見取図⇒
点滴とリハビリの日々 ここからK記載・闘病日記
5月5日(日)入院四十六日目
点滴によるアレルギーで、胸一面と両足全体に赤い発疹が出る
5月6日 (月)入院四十七日目
散歩 抗生物質点滴30~60分 朝夕二回 発疹を抑える飲み薬
5月7日(火)入院四十八日目
昨日と同じ
5月8日(水)入院四十九日目 
採血=結果まずまず 湿疹は少し改善 体内菌は少し軽減してきて、安全圏になれば退院できる。あと数日から一週間か?
5月9日(木)入院五十日目
朝九時Y先生回診 大腸菌(悪質)対策二週続けてきて、週明けの血液検査の結果を確認して良ければ退院できそう、Y先生の言葉にこれまでになく嬉しく涙が出る。
今日の感触では、5月14日~18日に退院か! 一人リハビリ頑張るぞ~
11時~11:30 リハビリ室で自転車こぎ20分、階段乗降3回
朝に続き夕方また、Y先生回診あり。帰り際、発疹はだいぶきれいになってきたとの事。
5月10日(金)入院五十一日目 
9:00分~シャワー  9:40分Y先生回診。胸開けると発疹がだいぶ薄くなってます、いいですね、では明後日(採血か)と言って帰る
10時リハビリ 自転車こぎ20分、吊り輪体操、結構ハード 同室の方はリハビリに車いすに乗って来ていた。看護師さんが「Yさんは明後日?」と言う、採血の結果次第退院というニュアンスに聞こえる、明後日いよいよという感触!!
夕方、Y先生回診、どこも診ずに顔を見て「明後日の結果楽しみに」とだけ言って帰られる、これはもう退院決まりだな!
5月11日(土)入院五十二日目 
朝の回診はY先生はこなかったが、「明日午前中の採血で良ければ13日(月)にも退院です」 明日の採血の結果はすぐ出るらしく、問題なければ13日にも退院だ。
14時~家族面会中に談話室で点滴の交換
5月12日(日)入院五十三日目 
6時 採血、尿検査、点滴交換
血液検査の結果は10時頃にわかり、12時頃の先生回診でそこで退院か伝えられるらしい。万事を尽くし天命を待つ、心境 退院できるか否か待つのが辛い。
「ダメでも受け入れて治療に専念してください」とMからメール。
明日の天気予報は、嵐のような大雨の予報、退院が決まれば2~3日待つのははOK
10時 回診は他の先生。「血液検査で白血球の数値が多いのでY先生が出勤して最終判断します」と言われる。少しがっかり。
夕方Y先生回診。「白血球多いのと、尿検査で悪い菌がみつかり、これを直さないとたいへんな事になります」退院延長になり、一日三回の点滴も一種増やして二つづつの点滴になる。退院の希望が消え、打ちのめされ最悪気分。ベッド脇のテレビつけ大相撲を観る。
18時 夕食運ばれる。本当に退院して前の生活が戻せるのだろうか?悔しい。いやもう一度絶対に前の生活に戻ってやる!
5月13日(月)入院五十四日目
大雨。Iが見舞いに来る予定だったが止めさせる。前立腺肥大の薬入院以来止めているせいかトイレの頻度が一時間おきのよう、昨日は退院も延期になりあと十日後を目標にじっくりいこうと覚悟する。リハビリ自転車こぎ20分。薬が二錠増え三錠に、体重が66.6㌔、入院前から8㌔も痩せた。
14時~看護師により、点滴の針の位置を変える必要があると、針を刺すのに痛みがひどく苦労する。下手な看護師だ。点滴終わるまで16時近くまでかかる。朝からずっと肩こり頭痛。夕方18時Y先生回診。どこも診ないで、「あさって15日水曜日に再検査しましょう、状態よければお家に帰れますよ」と退院におわせられ、今度こそ本当なのか!
先生の表情は、一日も早く帰してあげたいという思いやりが伝わってくる。
【15日水曜日採血、検尿、の結果次第だ!】
5月14日(火)入院五十五日目
深夜一時半トイレ、眠れなく長い夜が辛い。
早朝5:40分~6:40分 二つの点滴今朝は楽にできた。入院前に持参していた薬(前立腺肥大の) は「持参薬鑑別」といって調べてくれるらしい、が先生がその薬は大丈夫で、当院でも用意できます、と言われる。10時~10:45分リハビリ。11時~シャワー 12時栄養士さんがきて退院後の食事について指導があると言うので、13時半に家内が来るので一緒に聞くことにお願いする。
13時半~個室でMも一緒に食事の指導を細かくされる。特に血圧管理には一日の塩分接種目標は6グラム以下と特に注意される。
昼食少し多く、みそ汁は一日一度。
善玉コレステロールが少ない
肉の脂身は裂ける(豚肉・鶏肉の皮)、魚干物は避ける、出汁の素は無添加無塩の物を
5月15日(水)入院五十六日目
6時 採血と検尿、いい結果を祈るのみ。(検査前水多めにとり準備した)
8時半!トイレからの帰り、廊下でY先生とばったり、自分の部屋に来るようだった「明日退院OKです、今から手術がありますので、細かい説明はその後奥さん共々、夕方16時にします」(やっとやっとの退院許可!涙が出る)Mに先生からの指示を連絡、15時半M病院に来る。
先生の手術時間が伸びて17時半個室で、今までの病状経過と、これからの家での注意事項細かな指示がある。本当に怖い病気でよく助かったものと今更ながらに思う。先生には感謝しきれない気持ち。18時今までで一番遅い時間にMは帰る。


2024年3月20日 救急搬送
2024年3月21日 検査.応急処置
2024年3月22日 解離.応急処置
2024年3月23日 16時一回目手術
2024年3月24日 3時手術が終る
2024年3月25日/ICU(集中治療室)
2024年4月01日 解離二回目手術
2024年4月02日ICU(集中治療室)
2024年4月07日/ECU(救命治療室)
2024年4月12日 個室に移る
2024年4月22日 四人部屋に移る
◆大動脈解離とは 国立循環器センター
入院中、点滴.投薬.リハビリの日々
食事いろいろ 術後せん妄とは
2024年5月16日 退院
2024年5月27日~ 定期検査⇒

5月16日(木)入院五十七日目  (B)型解離を残したままの退院。
経過観察しながら解離幅が大きくなると再手術が必要になる、完治ではない退院。
早朝5:45分、最後の点滴一種だけが終わる。血圧130-65やや高め。動悸も少しあり気になる。退院で気持ちが高揚しているせいか。完治しての退院ではないので、不安も大きい。Mも帰ってからの塩分控え目の食事の支度にプレッシャー感じている。
荷物を整理して、談話室で、看護師さんから退院後の生活の各種注意事項の説明を受ける。
あいにくの雨模様だが、娘とMが笑顔いっぱいで迎えに来る。
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大動脈解離を患った人達⇒
「B型解離について」⇒


二ヶ月ぶりに自宅に帰る
5月16日入院から58日目退院の日、朝いつも通り点滴、10時朝食後看護師さんから退院後の薬についての説明がある。12時着替えて受付で清算、11万円余り支払。2カ月ぶりの外気が嬉しい。家に帰りゆっくりシャワーごを浴びる、気持ちいい。体重が65.3㌔入院前から10㌔も減っている。夜はぐっすりは寝られない。血圧は薬の効果か120代だが、脈拍が以前は50前後だったのが100前後と多いのが気になる。
5月18日立ち眩みで廊下で倒れる。
5月19日ラジオ体操も途中で気分悪くなり中止する。夜発熱37.9℃
5月20日ほとんど一日中ベッドでごろごろ休む毎日背中痛み続く
5月21日今日も一日中ベッドでごろごろ、左背中痛み続く
退院して一週間初めて散歩 5月23日やっと少し外に出て散歩979歩。左背中痛み続く
5月24日今日は散歩600歩、背中痛み続く。
2024年5月27日 退院後初めての・定期検査  
  CT撮影 採血 採尿 特に異常なし
 Y先生からの諸注意.....人混みに行かない。家でゴロゴロ養生。散歩はOK。ぬるめのお風呂。出血しにくい歯ブラシ。薬は毎朝一緒に飲んでよい。夕食後の薬は一つ目の後2時間開けて飲む・大学病院泌尿器科の薬は併用してよい。S病院の降圧剤(血圧下げる薬)はこちらで出すの不要
5月27日~ここ4日間夕方になると微熱、氷枕して寝るが、だるく夜ぐっすり寝られない。朝になると改善する。殆ど家の中でゴロゴロの毎日
6月2日 朝の血圧上90台、下50台低く、歩き方向変えるとめまいがして転びそうになるので注意が必要。背中の痛み続く
6月6日 明日病院なのでシャワーに入るが、背中の痛みひどくゆっくりお風呂も入れない
6月7日 臨時検診 数日前より発熱あり、先生に電話、お願いして検診を受ける。特に異常なく、次回は20日に予約。 B型解離40㎝の大きさ変わらない50㎝以上になると再手術が必要だが今日のところは大丈夫。背中の痛み止め薬を処方してもらう  
6月9日 背中の痛みも少し改善。散歩398歩
6月11日 近くの公園までやっと歩く。706歩背中痛みなければもう少し歩けそう
6月12日 昨日に続き頑張って散歩、退院後最長2059歩 歩けた。背中痛みあり
6月14日 バストバンドを強く締めると背中の痛み少し改善、3305歩歩けた
6月16日...4483歩 17日...4718歩  19日...4231歩
2024年6月21日 二回目・定期検査  
 CT検査、採血血液検査、(B)解離41㎜前回と変わらず、50mm以上になると再手術。善玉コレステロール少ない、白血球多いなどの注意あり。次回は二ヵ月後の8月30日。検査の間隔も長くなり嬉しい。
背中の痛みだいぶ改善 6月23日...4500歩、背中の痛みがだいぶ楽になる
6月25日...4400歩  6月29日...3933歩、背中の痛みほとんど感じなくなっている
医療費明細届く
"大動脈解離"手術.入院費用は1200万円以上もかかっていた。
高額医療費控除で自己負担の少ないのに、本当にありがたい

7月8日...6164歩、退院後最長歩く。
7月9日左太ももの痺れが気になり始め病院に電話先生と話す、明日来なさいとのこと。

7月10日 病院へ臨時検診、レントゲン、血液検査、左足の痺れは二度目の手術の際、左足付け根からカテーテル挿入して神経に影響のせいでしばらくして直るという。病院から帰り初めて電車で自力で帰る。
7月11日 退院後初めて一人で散歩する4562歩
7月12日~8月29日 毎朝8:00~9:00頃の散歩を続ける3000~5000歩  
8月6日 外出に自信が出てきた。
そろそろ旅行に行けるのではと、10月末に温泉旅行を立案。
Mが心配して絶対無理と反対しているので、実現するか不透明。
8月~8月29日 フランスから次女と孫帰国 家に滞在。
毎朝8:00~9:00頃 毎日の日課の散歩続ける4000~5000歩
2024年8月30日 三回目・定期検査  
 CT検査、血液検査、(B)型解離43mm前回とほとんど変わらず経過観察へ。血液流れ良くする(抗血栓薬は出血止まり難いのでに注意)、尿酸値↑、血圧コントロールの薬朝3錠夜1錠を処方していただく 
9月1日~9月末~朝晩血圧チェック、減塩食事、朝の散歩(4~5000歩)続ける。時々胸のあちこちに痛みあり、間もなく改善。左足太ももの痺れ感続く、改善せず。
9月22日右目下半分水が溜まったように白く視野が欠ける。ネットで調べると脳梗塞の疑いあると、気になるがすぐ改善、以後全くでない。
10月1日~減塩食事、朝の散歩(4~5000歩)続ける
10月28日八ヶ月ぶりに三泊四日の旅行無事帰る ⇒ 諏訪湖~蓼科高原の紅葉
11月1日~朝晩血圧チェック、減塩食事、朝の散歩(4~5000歩)続ける
2024年11月22日 四回目・定期検査  
血液検査、(B)型解離特に検査無く経過観察。血液流れ良くする(抗血栓薬は出血止まり難いのでに注意)、尿酸値↑、血圧コントロールの薬 善玉コレステロール値低くその対応に新たに一種追加 朝4錠夜1錠になる。次回定期検査は2月21日
11月23日~30日 朝晩血圧チェック、減塩食事、朝の散歩(5000~7000歩)続ける
12月2日年末年始の計画をする。年越しは二人で静かにお正月を迎える予定。
12月5日~減塩食事、朝の散歩(5~7000歩)続ける。 1月13日のお墓参りと、14日~16日の老齢の姉二人を伴なって箱根旅行を決める。

2024年5月16日 退院
2024年5月27日 一回目定期検査
2024年6月11日 臨時検診
2024年6月20日 二回目定期検査
2024年8月30日 三回目定期検査
2024年11月22日 四回目定期検査
2025年2月19日 五回目定期検査
2025年5月14日 六回目定期検査
2025年8月22日 七回目定期検査

2025年2月19日 五回目・定期検査  
血液検査、今回も(B)型解離については検査無く不安が残るが、先生からは何の説明もないので、今のところは大丈夫だと良い方に解釈することにする。飛行機を利用しての旅行について、「大丈夫ですよ」と、あっけなく言われた。薬は朝3錠夜1錠になる。次回定期検査は5月21日
2025年5月14日 六回目・定期検査  
21日の予定が数日前Y先生からの電話で一週早くなる。病院に行くとY先生OPの為、予定していたCT検査はなく、血液検査のみで、結果については代理の先生から説明がある。善玉コレステロール数値低い、腎機能の低下(水分を多くとるように)などの注意がある。 薬は前回同様、朝3錠夜1錠処方される
2025年8月日 七回目・定期検査  
2025年11月日 八回目・定期検査  
終
大動脈解離を患った人達⇒
「B型解離について」⇒
”大動脈コラム”(6)⇒ 「B型解離について」...おおたかの森病院医療コラムから転載⇒
原則として緊急手術を必要としない急性大動脈解離について
右の図で、「A型」と「B型」との違いはお分かりですか、図のピンク色の部分が大動脈で、その頂上に3本の角があります。 これは、主に頭部に行く血管です。これより左下、つまり心臓に近い部分は「上行大動脈」と言い、直径3-4cmの太い動脈です。 これに、エンジ色のコブラみたいなものがついているのが「A型」で、ついていないのが「B型」です。この、エンジ色のコブラが、解離によってできた「偽腔」です。 「A型」は緊急手術が必要ですが、「B型」は原則 緊急手術は必要ありません。 急性大動脈解離A型とB型をまとめると下記の通りです。
A型:解離が上行大動脈に及んでいる。 →緊急手術が必要
B型:解離が上行大動脈に及んでいない。→緊急手術は不要(原則)
では、緊急手術が必要か否かは、どこで分けられるのでしょうか?それは、図の左側「A型」か、右側「B型」で分けられるのです。 違いがお分かり頂けますか?違いは、解離によってできた偽りの血液の流れ道(=偽腔(ぎくう・図で黒く塗りつぶされている部分)が、 心臓から出てまっすぐに上に向かって行く大動脈(=上行大動脈)に及んでいるかどうかです。
偽腔が上行大動脈にあるのが左側「A型」で緊急手術が必要です。偽腔が上行大動脈にないのが右側「B型」で緊急手術は“原則的には”不要です。 大抵の場合、CT(断層撮影)で偽腔ははっきり判りますので、上行大動脈にあれば、すぐ手術ということになるのですが、大切なのは【時間】です。 診断確定までの時間もさることながら、そこから、手術開始までの時間も大切な要素で、これがいたずらに長いと助かる方も助からないということになるのです。
たいていの場合、背中や胸などがとても痛いので、最初に行う治療は、痛みと死の恐怖の除去です。 痛みを除去しつつ、血圧の管理を行いますが、この頃には、CT検査も終わっており、緊急手術の必要性の有無が決まっています。 そこで、「B型」と診断されれば、緊急手術は必要ありません。上行大動脈に解離が及んでいない、ということは、とても大切なことです。ここで、大動脈について、名前のおさらいをしておきます。心臓から出たすぐの上行大動脈は、胸の前から背中へグルっとヘアピンカーブする“弓部大動脈”となり、 さらに、まっすぐに背中を降りて行く、“下行大動脈”、その先は、おなかに入り、“腹部大動脈”、そして、臍のあたりで二股に分かれ、いわゆる“末梢動脈”となります。






左の図からも分かるように、上行大動脈以外の方が長さの点では明らかに長いのですが、危険度は“やや軽い”のです。 勿論、『的確な治療』がなされないと、ほぼ100%亡くなることには間違いありませんが、この場合の的確な治療とは、手術ではなく厳重な血圧管理なのです。 長い歴史の中で、さまざまな試みが行われた結果、  【手術はしない方が治療成績がいいということが判ったのです】
ただし、“原則として”です。
この“原則”通りでない場合、次の2つの場合には緊急手術の必要があります。
1.大動脈破裂の危険が予見されるほどの拡大、および破裂
2.胃腸や脚に血液が流れ難い、または流れていない
この2つの場合でなければ、緊急手術の必要はありませんが、油断は禁物です。 入院時には大丈夫でも、入院中、たとえば翌朝、あるいは1週間後に、急激に大動脈が膨らんだり、解離が上行大動脈に及んでしまったりすることがあり、 その場合にはその時点で緊急手術が必要になります。
このように、「B型」解離でも突如として、緊急手術が必要になる場合があるのです。さらに、入院中なのに手術まで辿り着けないで残念なことになることもあり、 決して目の離せない疾患なのです。常に大動脈の変化に注意が必要で、大切なのは、この“変化に気づく”ことでしょう。
外科医としては、「緊急手術の必要はないのか?」と、常に疑っていることが必要なのです。 決して、緊急手術を手ぐすねを引いて待っているわけではありませんが、それほどこの疾患は時々、刻々と変化するものなのです。 そして、その変化を見逃すと、“命取り”になるということを肝に銘じて患者さんや、その家族に接するべきであるということです。
順調に過ごせたならば、通常は約2~3週間で退院することができます。 退院後は、外来に通いながら、厳重な血圧管理と、半年毎のCTで大動脈の拡大(大動脈瘤形成)の有無を調べる必要があります。 いわゆる“慢性期”の大動脈解離として加療されることになるのです。
今回は、緊急手術の必要がない「B型」解離の場合について述べました。
この図で左がA型、右がB型です。笑瓶さんは、2015年はこのB型だったのです。問題は、今回の出来事で原因は2つ考えられます。
1.突然A型となり、さらに破裂した。
2.B型で大動脈瘤ができており破裂した。

1.の型は稀ですが、実に恐ろしいタイプです。B型の方を大勢診て参りましたが、一人だけです、B型で診ていた方が、入院中や外来で突然A型になって緊急手術となることはございますが稀です。
まして、破裂にまで至って亡くなるというのは非常に稀です。
2.は考えにくいです。
理由は、瘤ができていれば、主治医からそのように話があり、瘤が大きくなれば「そろそろ手術が必要ですよ」と言われるはずです。 B型解離で外来におかかりの方や、入院中の方に申し上げたいことは、「怯える必要はございませんよ!」ということです。
怯えるよりも、退院したら何をしようかなど、楽しいことに目をお向けになる方が、体のためにも心のためにもよろしいです。
解離の方は、ほとんど「高血圧」をお持ちです。血圧を安定させるには、もちろん薬が必要ですが、精神的な安定=リラックス、がとても大切です。大動脈解離B型で退院後は、再発を防ぐために、血圧を下げる薬を確実に服用し、血圧や心拍数を上げるような活動を避けることが重要です。また、定期的な検査を受けることも必要です。大動脈解離の退院後の生活について、さらに詳しく見てみましょう。
退院後の通院は、それまで通院していた病院や医院、循環器内科での継続治療が原則です。退院後は定期的にCT検査を受けて、大動脈の大きさを追跡します。最初の1年は1・3・6・12ヶ月後、その後は6または12ヶ月毎に検査を行います。大動脈径が55〜60mm以上になると破裂のリスクが高まるので、外科的治療を考えます。運動は退院後からOKですが、程度は体と相談しながら行いましょう。
退院後間もない頃は、運動前後で血圧、脈拍を測り、運動前に高い時はやめておきましょう。
大動脈解離コラム(4)
左図は解離の説明図で、直径3~4cmの血管である大動脈を輪切りにしたイラストです。 その壁は3枚の極めて薄い膜で構成されています。真ん中の図は、この内側の2枚に裂け目ができ、2枚目といちばん外側の壁との間に血液が流れ出したところです。 右の図は、新たにできた通路に、まるで本来そこに血液が流れていたかのように大きく広がって流れているイラストです。これが解離です。 壁の中の2枚目といちばん外側との間には、本来 隙間はありませんので、ここに血液が流れ出すということは、通常あり得ません。 これが病気なのです。そして、このように壁の内部が急激に剥がれていく時に、猛烈な痛みを伴います。これが、解離の痛みです。 さらに、痛いだけではなく、もっと恐ろしいことが起こります。
新たにできた偽の通り道は、いちばん外側の薄い壁で、まさに“薄皮1枚”で 血管の外に面していることになります。ですから、“破裂寸前”という状態となり、これが破れると「突然死」となるのです。 これが解離の本当の恐ろしさです。
目の前で今まで一緒にご飯を食べ、話しをながら笑い合っていたのに、突然 白目をむいてテーブルに突っ伏して、それきり・・・。こういう極端な状況も珍しくありません。 「背中や胸が突然痛くなった」「痛みが腹や腰にまで移っていく」など、痛みの範囲や程度は様々です。 先日も、こんなことがありました。胸、背中が痛いという方が、他の施設に運ばれ、そこで急性解離だと診断されました。 その後、当院へ緊急手術目的で搬送中、あと3分で到着するというところで破裂してしまい、残念なことになってしまいました。
このように解離は突然起きるのです。そこに、もともと太い大動脈瘤があろうが無かろうが関係なく、正常の太さの大動脈にも起きるのです。 これが“大動脈解離”なのです。そして“解離”の本当の怖さは、“薄皮1枚”が破れることなのです。それは、“即死”を意味します。 “解離”は正しく治療されないと、24時間以内に90%の方が亡くなる恐ろしい病気なのです。
解離による痛みの性質は、胸から背中にかけて、「ダンプカーにはねられたような」とか「突然、後ろから蹴飛ばされたような」痛みだそうです。 時には、その痛みで気を失ってしまう方もいるほどです。また、「痛い!!」と思った瞬間 気を失い、気がついたら左手足が動かないというような、 あたかも脳卒中を思わせる症状もあるのです。あるいは、破裂した血管から血液が漏れ出してしまい、心臓を包む袋(心嚢と言いますが)に血液が沢山溜まってしまいます。 それが心臓を押さえつけて動きを悪くし、血液を全身に送り出せなくなってしまうため、冷汗ビッショリとなり、生あくびが出たり、意識がおかしくなってしまうという方もいます。
大抵は救急車で運ばれるのですが、診断確定までの時間は、10分から一昼夜まで、非常に大きな差があります。 と言うのも『胸や背中が猛烈な痛みがあり、かつ血圧が200もある』などという典型的な症状なら、すぐに診断がつくのですが、脳卒中を思わせる症状の場合には、 やはり脳卒中が最初に疑われます。そして、長い“回り道”をした後、やっと見つかることになるからです。 特に、気を失っているところを見つけられ、病院へ運ばれるような場合は、よほど経験豊かな施設でないと、そこですぐに“解離”と疑われることは、 まずありません。大抵は、ご本人の意識が戻った時に「背中が痛い」とか「胸が痛い」などの訴えがあって、CTを撮影したら解離だった、というような見つかり方が多いのです。 こうして、簡単に10時間や20時間は過ぎてしまうので、それでも命があったというのはかなり幸運なケースだと言えます。
このように、急性大動脈解離というのは、ほとんどの方の命をあっという間に奪うものなのです。例え病院にたどり着けたとしても“解離”の診断は、非常に難しいのです。ともすると“迷宮入り”してしまい、間に合わずに亡くなってしまった後、 死後のCT検査で診断がついた、という非常に悲しい見つかり方もあるのです。 もちろん、状態の悪くなり方が余りに急激だと、いくら速く診断をつけても間に合わないということもあります。運よく施設に運ばれて診断がついたなら、次には治療が始まります。次回は、“解離の治療”について述べたいと思います。
「B型解離について」⇒
大動脈解離を患った人達⇒
 加藤茶さん  笑福亭笑瓶さん  立松和平さん(作家)  中嶋しゅうさん(俳優)  石原裕次郎さん
 堀内恒夫さんご子息  武川雅寛さん(音楽家)  司馬遼太郎さん  青木淳也さん(お笑い)  三浦建太郎さん
 大瀧詠一さん  鹿沼絵里さん(女優)  三波伸介さん  鶴ひろみさん(声優)  渡辺英樹さん(C-C-B)
 大木凡人さん  もんたよしのりさん  塩屋俊さん(俳優)  檀臣幸さん(声優)


  人生残りカウント時計は 最早 23時過ぎか....
2C病棟へ入院


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